大島弓子「桜時間」
大島弓子の描く親子の関係には心が持っていかれることが多い。大島弓子は小学生のときから読んでいて、そこから受けとる感情は当時も今もそんなに変わらないのだけれど、大人になってから読むと、こんなにもシビアな話だったのかと気づく。例えば「桜時間」は、自分の息子が、犯罪者だった(らしい)生物学的な父方の遺伝で、息子自身に生得的な反社会性や加害性があるのではないかと恐れる話でもある。
海外ドラマを見ていると、自分の子になんらかの反社会性があるのではないかと恐怖したり、葛藤するようなシーンがときどき出てくるけれど、日本の作品ではあまり見ないように思う。しかもそれをある種の宿命的なホラーや呪いとして描くのではなく、日常的なドラマに取り込んだという点で、とりわけこの話は稀な例かもしれない。
途中、息子のうさ吉が父親に(殴りたい衝動を)「でもおさえられないときは?」「もう理由がなくてもなぐりたくてなぐりたくてどうしようもないときは?」「どうしたらいいの?」
と問いを畳み掛けるシーンがある。その直前に父親は息子に対して、同級生を衝動的に殴ってしまった正当な理由があったとしても、もう一発殴るのは違うだろ、と言って聞かせ、それで息子も一度は納得し丸くおさまりかかる。ここからの上記の台詞である。子どもはその純粋さゆえに容赦ない。
普通の大人であればそこでなんとなく口当たりのいい言葉でふわっと言いくるめるか、とにかくダメなものはダメ、そういうものなんだよ、となるのだろうけれど、うさ吉の父親は口篭ってしまう。そして咄嗟に編み出した、衝動性を抑える出まかせの「おまじない」を息子に伝える。
自分の子に、自分ではコントロールできない加害への衝動が生まれながらにしてある(しかも元はと言えばそれは自分が子の父親に選んだ相手に遺伝的な要因がある)かもしれないということは、ある意味で全ての親が最も想定したくない、正面から向き合いたくないことかもしれない。けれど大島弓子は、そうしたことが現に起こりうること、その本質から目を逸らさない。社会や世間というものの想定の外側に存在する、そうした存在をないことにしない。そのことに安易に答えを出すことも、否定も肯定もしない。ただ、そうした自体が起こり得ることをみとめる。
だからこそ、それに対する真摯な応答は、必然的に「おまじない」というある種の「気休め」でしかあり得なかった。そこに真のリアリティというか、非常な切実さを感じる。主人公は途中精神的に追い込まれ、自ら息子に手を掛けそうになる。しかしその瞬間、彼女は衝動的に例の「おまじない」を唱えることで危機を脱することに成功する。父親が最初におまじないを唱えたときは、そんなもの無駄だと一蹴したにも関わらず。
私たちは他方で「おまじない」がある種の「気休め」であることを知りながら、しかしそのようなものによって、いつもなんとか生かされているのだろう。こうあるべきといった理想や精神論で押し切れるほど社会は単純ではないし、ひとはそう強くもあれないから。大島弓子の作品にはいつもある種の救いがある。しかしその救いは、極限まで突き詰めた寄るべなさと絶望のいちばん底に行き着いたその更に先にある。どんなことも個人の努力次第で改善できる、嫌な自分は変えられる、いつだって前向きに生きられる、そうしたことが高らかに詠われる社会の中で、ロジックや正しさからは逸脱した、現にどうしようもないことが「ある」ことをみとめ、生きていこうとすること。その態度にこそ救われるのだろうと思う。
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