映画「対峙」の赦すことと机と椅子
映画「対峙」を観た。ラストのあたりで、被害者側の母親が加害者に対してあなた方を赦します、と言うシーンがある。相手を「許す」というのは一般的には相手のための行為だと思われているけれど、「赦す」というのはどちらかというとそれによって自分自身を救うという行為なのだろうと考える。高校のとき、許すことと赦すことの違いというか意味をシスターが説明していて、当時は全くピンと来なかった記憶があるけれど、この映画を見てなんとなく分かった気がする。「赦す」と宣言すること(それはきっと思うだけでは不十分で、表明しなければならない)によって、人はあることに一つの区切りをつけることができる。加害者を赦す、あるいは実際には許せていなくても、そのように一旦言葉で宣言することによって、当座の自分を救おうとすること。それは相手方にも自分にとっても大きな癒しであろうと思う。
他方、日本で誰かにわたしはあなたを許します、と伝える機会はほぼないと思う。許さない、はあるだろうけれど。その点ではやはりそういうことを口にする習慣をもたない日本人は不幸だろうと思う。日本でこれだけカルトが流行るのは、仏教やキリスト教などが担う役割が小さいからだと聞いたことがある。むしろお寺や教会がコミュニティのなかに位置づいていれば、カルトによって道を外れる人も減るのかもしれない。日本人は加害者も被害者も、口を閉ざす。心の底では、話しても何も変わらないと思っている。むしろ語ることの不可能性への強い信奉といってもいいものが社会を覆っている。
その意味ではこれは自己開示についての映画でもあって、その点ですごくアメリカ的と言えるかもしれない。語ること、語ることによって得られる癒しというものへの信頼というのが根底にあるのだろうと思う。(けれど映画の感想のなかに、父親の方は二人ともストーリーを語ることを拒否している、という指摘があって、確かにそうだなと思う。アメリカでも父親はプライドによって語ることを許されない、あるいは自分の立場を崩したら負け(と思い込まされている)空気があるのかもしれない。)
ともあれ、日本国内に蔓延する語ることへの諦念は、突き詰めると語る「場」のなさにも起因しているのかもしれない。アメリカではなんらかのかたちで人が亡くなったとき、あるいは被害者や加害者、トラウマを抱えた人びとへのセッションのプログラムがたくさんあるけれど、日本では一般的ではない。そもそもこういう対話をする場所がない。
映画は教会の職員が対話の場のセッティングをどうすればよいか試行錯誤するシーンから始まる。会話の中身だけが主題なのであれば全てがセットされたシーンから始めればいいものを、あえてそうしなかったのは、教会の部屋という対話のための空間、つまり場そのものがあらかじめ自動的に用意されたものではなく、それもまた対話を促そうとする別の誰かによって設られたものであることを可視化しようとしたのかもしれないと考える。
対話のための小さな机と椅子をセッティングすること。ぎこちなく、不器用ながらも、なんとか言葉を交わし、対話できるような場を整えようとすること。机の真ん中ではなく、しかし眼には留まる位置に、ティッシュの箱を置いておくこと。こうした職員のささやかな配慮から、涙を流す被害者の母親に加害者の父親はそれを手渡すことができた。こうして始めは堅苦しく並べられていた椅子と机を隔てて「対峙」していた両者の境界は、被害者と加害者という関係性を超えて、柔らかく瓦解していく。語りえないことをそれでも語ろうとする個人を支えるのは、環境なのだということに気づく。