やりたいこと
2021(R3)1001Fri
私は評価されたいのか、されたくないのか、分からなくなってきた。
(※このブロックはミスiD2022の説明的な部分です。既にご存知の方は読み飛ばして大丈夫) 前提として、私は今ミスiD2022というオーディションに参加している。その審査基準の一つにCHEERZというアプリを使った選考があった。配信や写真の投稿を行うもので、それらに観覧者が送る「チア」の数によって、ランキングがつけられる。今年のミスiD応募者は1400人超であり、CHEERZ選考では応募者がA〜Gのブロックに分けられ、各ブロックのチア数上位10名が次の選考へ進める。しかし、これはあくまで選考の一つであり、このランキングに載らずとも、エントリーシートやSNS等何かしら審査員に引っかかると、次の選考へ進める可能性がある。
私がミスiDに応募したのは、誰かの心の、柱の一つになれるような言葉を作りたかったからだ。そして私にはそんな言葉を作る力があると、証明したい。「支えられた」と言ってくれた人に、自信持ってこれからも言葉を伝えられるようになりたい。自分のいる場所が世界の隅っこだと信じている人たちに読んでもらいたい。その先で私の言葉を好まれることはとても幸せだけれど、私はただ、ドアの隙間から手紙のように言葉を差しいれたい。自己満足は百も承知で。広く、たくさん存在している隅っこに私の詩を届けるには、私をたくさんの人に知ってもらうことが一番有効である。そういう意味で、ミスiDは適当だと考えた。
では、具体的に何をするか。毎日詩を書くことにした。詩は私の宝物だから。それまでもぽつぽつ書いていたけれど、これを機に毎日続けようと決めた。続けていれば「詩を書く人」として少し認知が進むかもしれない。それは、言葉の受け手を増やす意味で有効だと考えた。少し前まではnoteに詩を書いてそのリンクをTwitterで共有していた。しかしそれでは、詩を読んでもらうまでに「リンクを踏む」という段階がある。流れるタイムラインの中で、その先へ来てもらうことは難しかった。そのため、写真に詩を書いて、まずTwitterに投稿するようにした。文字の配置やフォント、色などを考えることはとても楽しかった。まだまだ実験も思考も未熟だけれど、現状、noteだけに投稿するよりもほんの少し見てもらえるようになった。
ミスiDに出ることで終わってしまえば、十分に言葉を届けきれないと思った。だから、賞を獲らなければならない、獲りたいと強く感じた。そのためには、審査員の目に留まらなければならない。「#ミスiD2022」のタグをつけて、配信をして、何かを続けて、私という存在を気に留めてもらわないと。始まるのは遅くなったが、CHEERZでの配信を週一でやろうと決めた。ブロックの上位10名どころか100位に入れるかも危うかったが、CHEERZから私を知ってくれる人を増やすのも大切だと思ったのだ。
CHEERZの2回目の配信で、「お姉さんもセクシー女優に」「お姉さんはドウテイですか」というようなコメントが付いた。その前にもやり取りがあったため、ここだけを取り上げるのは卑怯かもしれないが、ここしか覚えていなかった。ごめんなさい。「この単語を私に言わせたいのかな、私は性的搾取の対象なのかな」と思って、気持ち悪くなってその瞬間に配信を閉じてしまった。ショックを引きずり目を開けては閉じて、思った。「こんな嫌な思いをしてまで、言葉を届けたくない」と。こんなことで、と感じる人もたくさんいるかもしれないけれど、私は限界だった。ミスiD実行委員の小林司さんはTwitterで度々こう訴えた。「CHEERZに参加するかは自由」「自分のペースで」と。配信以外も見ていると。事実、そうなのだと思う。でも、私は見つけられるだろうか。目に留まるだろうか。正直エントリーシートの内容は(卑下でなく)何一つ面白くないし、少なくともエントリーシートから私のTwitterに飛ぶ人はごくごくごく少数だと思う。では、今年だめだったら、審査員の目に留まるまでミスiDに出続けるべきだろうか。
ぜっっってーーーーに嫌だ。
目的を見失うな。私は、言葉を、詩を届けたいだけだ。
審査員に見つかる努力はとても大切で、CHEERZ選考の結果はその努力のひとつの結果だと思う。CHEERZ以外の場面でもそうだ。見つかる努力は、想像していたよりも痛くて悩ましいものだった。戦っているすべてのエントリー者を尊敬している。そこは誤解しないでほしい。
私は、ミスiD2022の結果がダメなら、次のミスiDには出ない。今このnoteを書いているのはつまり、ミスiDの次の選考へ残れなさそうと感じているからだ。ダメだったら、詩を書く。他のことをやる。地道に私の言葉を届け続ける。もし次へ進めたら、詩を書く。やりたいことをやる。私の言葉を届け続ける。
ここで、冒頭の問いに戻る。私は評価されたいのか、されたくないのか。(ここでの「評価される」とは、「褒められる」というような意味ではない。「受け手に審査される」という意味である。)評価なんてされたくない。恐ろしさのかたまりだ。でも、見つけてくれたのならば、私は評価されましょう。それが私の責任だと思う。ただし、私の土俵の上で。