妖怪に会いに行く旅〜蟹坊主編〜
筆者には幼少期の頃から夢があった。何度も何度も恋焦がれてきた夢——それは妖怪に会ってみたいという夢である。そんなことは無理? 無理を承知で会いたい。だから夢なんだ。
そんなポエムな前振りはさておき、筆者は予々行って見たかった山梨県山梨市万力の蟹坊主の伝説の残る寺・長源寺に向かうことになった。蟹坊主、別名・化け蟹は、日本各地に伝承の残る妖怪で、だいたいが旅の僧侶に退治されている。その中でも有名なのが享保11年(1726年)以降に、山号を富向山から蟹沢山に改めた長源寺だった。
事前に電話をした際には、住職の方から「あまり観光向きでは無いですよ」という寂しげな言葉を聞くことになった。それでも妖怪に会いたいという情熱は止まらず、そこに長源寺の奇岩や伝説の絵図の掲載されているカッコいいホームページや蟹坊主伝承の面白さもあって年始に山梨県山梨市万力へと赴く運びとなった。
大蟹伝承の残る長源寺
蟹坊主のあらすじはこうだ。
それに調べた限りでは長源寺の奇岩の側に「伝承の奇岩」という札も立っているそうだ。他にも蟹坊主が追われた蟹追橋やサワガニが今も棲む川も流れているらしい。これは行くしかない。雲水と名乗った蟹坊主を倒した法印こと救蟹法師の名残りはあるのだろうか、蟹坊主の残した岩などは他に有るのだろか、失われた蟹の甲羅といった遺物はどうなったのだろうか——胸がワクワクする。まるでテレビアニメの『ゲゲゲの鬼太郎』に齧り付いて観ていた少年時代に戻ったようだ。
ちなみに独鈷とは金剛杵の一種で、帝釈天の持つ武器で、雷を操るとも言われる仏具である。蟹坊主伝承は斧で背中を叩き破れた伝承もあるが、独鈷の法力で敗れたということは蟹坊主は雷に弱いのだろうか?考えるだけでもワクワクしてくる。
自宅から山梨県山梨市万力へと車を飛ばして二時間か、三時間か。その山間には畑が広がり、葡萄棚らしきものも見える。『逃げるは恥だが役に立つ』でも取り上げられたように、このあたりは武田家と葡萄が有名だ。蟹坊主の面影は見当たらない。思ったよりも観光資源化されていない印象だ。
辿り着いた長源寺には——単刀直入に言えば何もなかった。立てられていた札は無くなり、蟹坊主が鋏で掴んだ奇岩が何の説明もなく残されている。ここで留意しなければならないのは、決して長源寺を責めているわけではない。失望したのは自分は蟹坊主にワクワクしていたが、世間は興味はない。そのギャップに失望したのだ。
どこまでいってもマイノリティ。そんな気分になったが、蟹坊主の遺物を見ると自然と気持ちが昂るものだ。空気が冴えて富士山も見える中、蟹坊主が鋏で掴んだ奇岩を目の前で見ることができたのは本当に幸福だった。
蟹坊主が投げた奇岩
そして持ってきたメジャーをルンルン気分で取り出し、長さを測ってみる。これで大まかな蟹坊主の鋏の大きさが算出できるはずだ。伝承上では蟹坊主の大きさは二間四方、つまりは甲羅の大きさは正方形で約3.6メートルということになる。計測したメジャーの大きさから、蟹坊主の鋏は爪先の大きさは約25センチメートル、そきから考えて鋏全体の幅は約30〜40センチメートルほどだと思われる。これなら成人男性である救蟹法師こと法印が独鈷を叩きつけて甲羅を割ってもおかしくない大きさだ。この絶妙な大きさが生き物らしくて伝承を生々しくしている。いやあ、興奮してきた。
見えてきた蟹坊主(化け蟹)の全貌
1885年(明治18年)に描かれた絵図と比較すると鋏がもう少し大きかった可能性も考えられる。また、ここでは蟹坊主は赤い血を流しているが、本来の蟹の血はヘモグロビン由来の鉄分による赤ではなく、無色透明で酸素と結びつくと銅イオン由来の青色に近くなるとのことなので絵図は信憑性(?)に欠ける部分があるかもしれない。この辺の生物学の知識は明るくないので、この程度にしておくが、この旅によって実際の蟹坊主(?)の姿をより鮮明に捉えることができた気がする。
蟹坊主の背中の甲羅を叩き割った金剛杵の独鈷は前述の通り、帝釈天の持物で雷を操る武器とされる。長源寺の御本尊は千手観音像だが救蟹法師こと法印が法力を持って独鈷を使ったことを考えると、もしかしたら蟹坊主は雷など電気に弱かったのかもしれない。これまで蟹坊主といえば「両足八足、大脚二足、横行自在にして眼、天を差す時 如何。」という問答を出してきて、それに正解である「蟹」という答えを出すことで追い払えるのだが、ここに来て新しい弱点も見えてきた。
雷が弱点には鉄分由来のヘモグロビンの赤い血と、銅分由来のヘモシアニンの青い血の方が、銅故に電気伝導率が高いのだろうか。ここも筆者は明るくないので、有識者に意見を求めたい。また、ヘモシアニンは血球に閉じ込められずに直接体液に溶け込んでいるらしいので、それも蟹坊主の電気伝導率に影響しているのだろうか。興味が尽きることはない。
さらに蟹坊主の残した奇岩の鋏の爪痕や、伝承からも蟹坊主の大きさまで見えてきた。蟹坊主と遭遇した際に必要なものや、蟹坊主退治に必要な技術すらもわかってくる。こうなると興奮が止まらない。この「もしかしたらいるかもしれない」という浪漫がたまらない。ここに美しい沢が残されていたら、さぞ素晴らしい観光資源になっただろう。
また筆者の身長が170cm程度なので、そこから対比すると、奇岩の大きさがおおよそ1㎥程度であることがわかる。奇岩が比較的柔らかく加工しやすい凝灰岩だと考えても、1.5t/㎥の密度があると考えられる。
質量の計算式は「質量=体積×密度」なので、奇岩の質量を求める計算式は
1㎥× 1.5t/㎥
となり、その質量は
1×1.5t/㎥=1000×1.5=1500kg=1.5t
となると考えられる。その質量を持ち上げる蟹坊主の怪力、そして蟹坊主と張り合った救蟹法師こと法印の膂力たるや、なんともワクワクさせてくれるではないか。この「少しあり得そう」という点が浪漫を加速させる。
蟹坊主が逃げた橋
しかし、これ以外に蟹坊主にまつわる遺物は長源寺には展示されていなかった。そこでもう一つの蟹坊主伝承のある場所、山梨県山梨市大工の蟹追橋に向かった。長源寺から車で数分、1.8キロメートルほどのところなので、あっという間だった。
山梨新報社のホームページ、地名と民話の記事では今でも2〜3人が訪れることがあるらしいが、年始だから見受けられることはなかった。というよりも、山中へと繋がる道にかかった橋のため、人もほとんどいなかった。
背中の甲羅を割られた蟹坊主が1.8km以上を逃げたというのも、蟹坊主の大きさが失われた背中の甲羅を遺物や伝承から考えても二間四方(約3.6㎡)以上とされているので、この大きさと逃げた場所の距離も含めて「少しあり得そう」感があり、浪漫をより一層加速させてくれる。
観光資源と歴史遺産の両立
山梨県山梨市大工には万力と同じく化け蟹伝承の一つとして、蟹追い坂という蟹坊主が逃げた坂もあったらしいが住民に定着せず、開発の結果、無くなってしまったそうだ。確かにそれも仕方がないだろう。蟹の棲む沢も治水のためにコンクリートで固められている。
実際、前述の通り遺物の甲羅も失われてしまい、奇岩だけが残された蟹坊主がそれ一本で町を食べさせていけるほどの観光資源になり得るだろうか——いや、無理だろう。仕方がないことだが、何だか寂しい思いをしながら筆者は『逃げるは恥だが役に立つ』の聖地に向かった。葡萄といい、確かにこちらの方が歴史的にも良い観光資源になると思う。
それでも、実際には「法印という僧侶が治水などを為したのを蟹坊主伝承として残したのかもしれない」という現実的な考えが過るが、それでもワクワクしてしまうのが妖怪好きの“さが”なのだ。
日本各地の蟹坊主伝承
ちなみに伊豆地方にも蟹坊主伝承があるらしい。そちらは滝壺に棲み、その約3.3mの大蟹が暴れると地震が起きると伝えられている。以前伊豆地方に訪れた際には白濱神社へと向かう山中で真っ赤な蟹がおり、それを見て伝承を思い出し、「何だか妖怪っぽいなぁ〜」と妖怪に恋焦がれた記憶が蘇った。
それと同時に白濱神社に関しては、海に向かって立つ美しい鳥居と山々の自然が観光資源として貢献している。いくら面白い伝承があっても、観光客を惹きつける“フック”が無いといけないのだと、白い砂浜と青い海の風景と共に想い出された。
伊豆地方の蟹坊主伝承では、滝壺に約3.3メートルの化け蟹がおり、それが動くと地震が起きるらしい。しかし、筆者が見に行った浄蓮の滝には女郎蜘蛛伝説があり、糸を足に引っかけて滝壺に引き摺り込んでしまうそうだ。蟹と蜘蛛、縄張り争いでは蜘蛛に軍配が上がったということか。浄蓮の滝は女郎蜘蛛伝説と名産品の山葵が上手い具合に観光資源になっていった。
この実際に美しい風景が残っていること、そして少しの恐怖と「もしかしたらいるかもしれない」という浪漫が観光資源化に一役買っているのかもしれない。いやはや、観光地化と伝承の保存は難しい。
『ゲゲゲの鬼太郎』で妖怪の棲み家が無くなる話がよくあったが、それを何とも実感させられた。妖怪と人間、観光と伝承、共存は難しい。だが、何はともあれ、自身のマイノリティを知らされた旅であったが、妖怪の遺物を見れて個人的には十分満足いく旅だった。今度は牛鬼の腕のミイラや角、八岐大蛇の頸骨など、他の妖怪や怪物たちの遺物や祭祀も見に行きたい。