『9割が女性患者の難病』にかかった『ボク』の話⑤
※この記事は少し長くなります。ゆるりと読み進めて頂けますと幸いです。
こちらの記事の続きになります。
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ステロイドの量は40mgくらいになった時に退院した。
主治医からは20mgくらいが職場復帰の目安になるだろうと言われた。
量が多い時に復帰しても、また再燃する可能性や、ステロイドや免疫抑制剤による免疫力の低下で感染症の危険があるため、量が減り、症状が落ち着いてから復帰したほうが良いとのことだ。
その事に関して、会社の総務の方に伝えた所、理解して頂けた。
傷病手当は1年半受け取ることが出来るので、ひとまずその期間を休養期間として当てて、復帰を待っていると言って頂けた。
ありがたかった。
だが、この時の僕の心境としては戻ることはそんなに考えていなかった。
また同じ仕事をして、同じ様に症状が悪化するのが怖かった。
もう2度とあんな苦しい思いはしたくない。
トラウマになっていた。
副作用で手の震えもある。
包丁を扱う仕事、細かい作業をする仕事。
「シェーグレン症候群」による味覚の異常。
以前と味の感じ方が違うのは自覚している。
味覚障害になるかもしれない体で料理人を続けることに意味はあるのか。
責任ある立場までいけたとしても、病気がバレてそれを広められたりしたら色んな人に迷惑がかかるかもしれない。
料理人として仕事を続けられる自信がなかった。
調理の専門学校に行ってから、ほとんどの時間を料理に費やしてきた。
料理をするのが好きだ。
食べてくれる人が笑顔になってくれたり、美味しかったと言ってもらえるだけで、すごく嬉しかった。
でも今の自分に人に喜んでもらえる仕事が出来る気がしない。
自分がポンコツになったような気がした。
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ステロイドは30mgぐらいまでは5mgずつ下がったが、その後1mgずつ下がることになった。
僕の場合は「皮膚筋炎」により「CK(クレアチンキナーゼ)」の値が上昇しやすいので、その項目が1つの目安で、薬の量を下げる判断をされた。
「CK(クレアチンキナーゼ)」とは
ざっくり言うと筋肉の損傷度を表す項目になる。
病気でなくても、健康な人が激しい運動をしたときでも高い数値が出ることがある。
僕の場合は「皮膚筋炎」が悪さをした形になるのだが、この「CK」には6年経った今も難儀されている。
ちょっと無理をすればすぐに数値が上がる。
僕の性格には相性の悪い病気のようだ。
入院したときも数値が高く、この数値はスポーツ選手だと何に近いですかと先生に聞いてみた。
するとフルマラソン走った後の選手がこのくらいの数値になると言われた。
だとすると僕は毎日フルマラソンを走った疲労感を感じていたのかと驚いたのを覚えている。
もちろん退院する頃にはかなり下がったので、マシにはなった。
倦怠感を感じるのも無理はないなと思った。
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この療養期間中はよく歩いたのを覚えている。
近くに大きな公園があり、ランニングコースがあるのだが、最初の頃は50m走るだけでもフラフラになったので、まずは何周か歩ける体力づくりをした。
徐々に歩くスピードが早くなると、今度は1周走ることを目標にした。
無理はしないように、焦らないように体力づくりに励んだ。
他にすることを思いつかなかったから、というのもあるが続けることで少しずつタイムも短くなる事で達成感も得られた。
あとこの時期はひたすら本や、映画、ゲームにアニメや漫画を読んでいたと思う。
1人で楽しめる娯楽を楽しんでいた。
友達はいなかった。
自分から連絡することも、連絡を返すこともしなくなったので、縁が切れた。
自分に自信を無くし、惨めに感じたからできなくなっていた。
当時は長く生きるつもりはなかったから、そうすることを決めた。
今はそれを後悔している。
もし病気に苦しまれている方がこれを見ていてくれていたら、どうか友人や周りの人を大切にして欲しいと思う。
僕は意地っ張りな性格が災いして縁を切ってしまったことを後悔している。
友人であるならきっとあなたのことを心配してくれるはずだ。
周りの人に上手く頼ることが、難病と上手く付き合う秘訣だと今はすごく感じる。(まだ7年目のひよっこだが)
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年末になり、段々と寒さを感じる頃。
突然電話がきた。
昔学生時代にお世話になっていた、フレンチビストロのオーナーシェフからだった。
「元気か?今どうしてる?」
驚いた。
今の自分の状況は知り合いに伝えていない。知るはずもなかった。
実際、病気にかかり休職をしている状況だと伝えると、向こうも驚いている反応をしていたから、知らなかったんだと思う。
「もし体が大丈夫で暇なら、ウチの店手伝ってくれないか?リハビリがてらに」
…躊躇した。
この時はまだ仕事をすることが怖かった。
飲食の仕事のペースに体力がついていく自信もなかったし、またあんな苦しい思いをすることになるかもしれないと考えたら、即答はできなかった。
一旦保留にして、後日返事をする形にした。
考えた。
病気のこと、自分のこと、自分のやりたいこと。
こうやって、シェフから連絡を頂けたのも、何かの縁かもしれない。
このオーナーシェフには学生時代にものすごくお世話になった。
平日学校に通っているにも関わらず、ほとんど毎日のようにシフトを入れていた。
平日昼間は学校、夜はバイト。さらに土日は1日通しでバイト。
お店は水曜日定休だったので、心休まるのは水曜の夜だけだった。
当時兄の家に居候していたが、本当の家族よりも長い時間を共に過ごしていた。
お店にはシェフとシェフのお母さん、スタッフ数人と僕がいて、家族のように感じていた。
シェフにはフレンチの面白さ、楽しさ、仕事の厳しさを教えてもらった。
自分にも周りにも妥協しないような人だった。
毎日のように怒られていた。
怒られなかった日は数えるほどしか無いと思えるくらいだ。
それでも僕はシェフの料理が好きで、シェフのようになりたくて、食い付いていった。
料理人としても、人としても成長させてくれた方であると言い切れる。
だからこそ、同じフレンチの道を進みたいと思えたし、フレンチの最高峰とも言えるお店で働きたいと思うことができた。
働くことが叶ったのも、この人のおかげだとも感じている。
そして、自分の実力がついたときにまた一緒に仕事ができれば…なんてそんな風に思い描いていた。
だから今の自分の状況で一緒に働くことにすごく後ろめたさや、申し訳無さを感じた。
それでも…。
このまま何もしないでいたら何も変わらない。
自分の状況を変えるきっかけになるのではないか。
そう前向きに考えられるくらいにはなっていた。
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後日返事をした。
年末の数日だけやらせてもらうことにした。
もちろん体調を考え、大したことはしないし、お手伝いみたいなものだったので、お金を頂くことはしなかった。
やれるときにやる。
そんな感じでやらせてもらえた。
ブランクからか薬による影響かはわからないが、仕事のスピード感になかなかついていけずに戸惑っていたが、それでもできるだけのことをした。
おかげで自信をつけることができた。
そして24歳の春頃。
「料理人としてじゃなく、サービスの方で仕事してみないか?」
そう誘っていただいた。
またオーナーシェフのお店で働く決心をした。
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休職していた会社は辞めることにした。
まだまだ傷病手当をもらえる期間は残っていて、療養期間に当てることはできたが、このまま何もしないでいるよりは、自分が働きたいと思う場所で働きたいと考えた。
親身になってくれていた総務の方や、元の職場の方々には申し訳なかったが、自分の気持ちの思うままにやりたいことを優先した。
会社の規模としては断然元の職場の方が大きく、色々と制度も揃っていたし、希望をすれば系列の別店舗に異動をして仕事を続けることはできたかもしれない。
それに体の事を考えて内勤の仕事に変えるなどしてもらえたかもしれない。
グループ会社の正社員という立場を捨てて個人経営のお店に転職するのはこの難病を抱えている身には悪手かもしれないが、それでも僕は自分の気持ちを優先した。
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慣れ親しんだお店で働くのは居心地が良かった。
やはり精神的には元の職場に戻るより、こっちで働くほうが良かったと思う。
人間関係的なストレスは全く無かった。
シェフやスタッフの方も僕の体の事情に理解してくれた。
どこまでならやれるのか、やれないのかを確認し合った。
自分自身も一度体調を崩してから、仕事をするのは初めての事になるので、試しながら仕事をした。
色々と気を使わせたと思う。
最初の頃はシェフを見てて、気を使ってくれてるなぁと感じることが多かった。
それでも仕事には真剣だから、怒られることももちろんあった。
それが嬉しかった。
変に気を使われるよりは、対等に扱ってくれたほうが自分にはよかった。
サービスの仕事(接客)の方も楽しかった。
お店はオープンキッチンなので、学生時代キッチンで働いている時も接客することは多かったので、違和感なく仕事はできていた。
自分が作った料理ではないにしても、おすすめした料理やワインを美味しいと言って笑顔になって頂けた時は幸福感に包まれた。
しかし肉体労働である以上、体への負担は大きい。
飲食であるため、どうしても労働時間もそれなりになる。
採血の結果も良くなったり、悪くなったりと波があった。
だから体の不調があればその分しっかりと体を休めた。
寝られる時に寝る。とにかく寝て体を休ませた。
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この時期接客をしてて、今でも忘れられない出来事がある。
ある日のランチタイムに3人の親子が来てくれた。
お父さん、お母さん、小さい女の子。
3歳か4歳くらいだろうか。
お子様用のメニューは無いが、家族で食事を楽しめるように、子供用に野菜のポタージュとパンを用意した。
大変喜んでもらえた。
すると女の子からお礼に折り紙の鶴をもらった。
今折ったものらしい。
僕もお礼にワインのコルクに穴を空け、紐を通してネックレスにしたものをプレゼントした。
めちゃくちゃ喜んでくれた……と思う。……そう思いたい。
接客の楽しさが身にしみた瞬間だった。
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ワインに目覚めたのもこの時期だ。
料理人をやっていた時もワインを飲む機会というのは多くあったが、本気で学びたいと思い始めたのはあるワインとの出会いがきっかけだった。
「ジェラール・シュレール/ゲヴェルツトラミネール・ビルストゥックレ【2012】」
である。
(参考は2017年ヴィンテージだが、この時は2012年を飲んだ…と思う)
(ゲヴェルツトラミネールとはぶどう品種の名前であり、特徴のある品種で、ライチや白バラの香りによく例えられるが、これはかなり複雑な香りのハーモニーがあり、ゲヴュルツっぽさはそこまでなく、新たな魅力を感じさせてくれたワインだった)
いわゆる「自然派ワイン」と呼ばれるものになる。
「自然派ワイン」とは・・・厳密な定義はないが、可能な限り自然に寄り添い、自然の力を存分に引き出せるように作られたワインに使われることが多い。その為有機栽培されたぶどうを使うことが多く、ぶどうの底力を引き出し、それを最大限に生かしてボトリングをされているものが多いため、味わいがとてもピュアだったり、パワフルなワインとなる。
要するにものすごく手間暇をかけ、こだわり抜いたワインが多いのが自然派ワインと呼ばれるものになる。
当時お店のワインリストの多くは自然派ワインだった。
シェフの好みというのもあるが、これより少し前の時期から業界に自然派ワインの流れがきていた。
昔は自然派ワインや有機ワインなどを「ビオワイン」と呼ばれ、ワイン愛好家からは”味が薄い”という意見や”独特の香り”が敬遠されていたが、この時期より少し前から多くの造り手によるワインのクオリティが認められ、ブームが来ていた。
自分としても自然派ワインの透き通る飲み心地が体に合っていた。
あと、服用している薬の関係でグレープフルーツ等の柑橘系が禁忌となり、ワインならグレープフルーツの香りを楽しめたりするので、よりハマった。
自然派ワインに限らず、色んなワインを飲んだ。
様々なお店に食べに行って勉強し、そこで働くソムリエを見て勉強していた。
味覚障害になっても、嗅覚を活かして仕事をするソムリエならやっていけるのではないか。
そう思ってから、JSAソムリエ資格(日本ソムリエ協会認定ソムリエ)の取得を目指すことになる。
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そうこうして働き始めて半年くらいが経った25歳の秋頃。
なんとお店の皆でフランスに社員旅行に行くことになった。
パリやブルターニュ地方を1週間楽しんだ。
初めてのフランスは居心地がいいように感じた。
空気感が自分にあっていた。
街にある小さなブーランジェリーやパティスリー、ビストロやブラッスリー。
どこに行っても美味しかった。
(ただ、適当に入ったカフェで食べたクレープシュゼットは唯一死ぬほど不味かった…)
宿はモンマルトルの辺りで泊まり、近くに有名な「ムーラン・ルージュ」があった。
そのような場所だから、金曜日の夜は特に賑わいを見せていて、フランス人も花金を楽しむんだなぁとしみじみと感じたのを覚えている。
日本人が多く働いているうどん屋や、日本人女性が切り盛りしている豆腐屋があったりして、意外とパリにいながらも日本を感じることが出来た。
素晴らしい時を過ごせたと思う。
(余談だが、日本に帰ってきた時にテレビをつけると、どこもかしくもピコ太郎氏が出ていて、軽く浦島太郎状態になったと感じた)
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社員旅行から帰ってきてから、年末に向けて大忙しの日々を過ごした。
もう仕事が楽しくなってきて、体調のことは気にしていなかった。
スタッフの数も少ないから、自分の代わりはいないと思っていた。
だから苦しくても自分が我慢すればいい。
…そう思っていた。
その思考がいけなかったのだろう。
また苦しむ羽目になる。
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飲食の年末は大忙しだ。
大概のお店はそうだと思う。
この時働いていたお店は超大忙しだった。
それでもそれを乗り切り、正月は実家でのんびり過ごすことができた。
そして、年明けの仕事始め。
違和感を感じた。
右臀部が激しく痛い。
テーブルなど重いものを持つ時はもちろん、歩いたり立ち上がったり、何か動作をするたびに激しい痛みがきた。
歩くときなんかも、引きずるように歩いてしまうような状態だ。
とても客前に出られるような状態ではなかった。
お客様に心配させる、不安にさせてしまうようではダメだ。
だからなるべくそう見えないようにしばらくは我慢をして続けた。
原因はわからなったから、疲れによるものだろうと考え、整体に通い詰めた。
しかし、なにも効果がなかった。
膠原病の外来でそれを伝えると、整形外科で見てもらうことになった。
そしてMRIを撮り、後日結果を聞くことになる。
結果は「特発性大腿骨頭壊死症」
右股関節の骨が壊死しているというのだ。
全く想像していなかった。
しかも左側も小さいながらも壊死しているらしい。
たまたま痛みが出ていないだけだった。
整形外科の先生から、おそらくステロイドの副作用による骨壊死だろうと言われた。
たしかに前に入院した時に言われたような気がする。
(なんでこのタイミングで…)
(また前向きに頑張ろうとして、仕事の方も上手くいってるこんな時に…)
今度は心が折れるだけでなく、前に進む為の足を取られたような気分だった。
もう日常生活もままならない程の痛みだった。
骨盤と繋がっている大腿骨頭は通常だと滑らかに動くが、僕の場合骨頭が壊死して潰れることで、形が崩れ、なめらかに動かすことができなくなり、それで痛みが発生している。
神経が痛いと感じるので、我慢できるできないの話ではない。
サービスマンとして、ソムリエとして仕事を続ける決意をしたのに、また自分の可能性を奪われたように感じた。
神なんて信じてはいないが、なぜこんな仕打ちを立て続けに受けなければならないのか…なぜあの時事故を起こしてしまったのか…何度もそんなことを考えた。
ただ…明日も頑張ろうと思っていただけなのに…。
どうしてこんなことになったんだろう…。
そんな25歳の冬だった。
==⑥に続く==
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こんにちは!
改めまして、KOH@メタメタ系男子です!(sle_koh)
はい!という訳でこの話も5回目になります!
とくに下書きもなく、思ったままnoteに書き起こしてそのまま投稿しているので、残りどのくらいになるか自分でも未知数ですが、少し端折ればあと3回くらいにまとめられますかねぇ…。
退院するまでには終わらせたいなぁとは考えてますが、どうしよう。
まぁnoteなんだし、思うままに書いていきます!
なのでもう少しお付き合い頂ければと思います。
話の方はついに「特発性大腿骨頭壊死症」を発症しました。
本文にもちらっと伏線があって、プロフィールにも書いてありますが、手術します。左側も。(再びネタバレ)
まだまだ僕の人生はこの後もシッチャカメッチャカな感じです笑
でも今こんな感じでいられているのも、きっと子供の時からマイノリティなモノに惹かれる変わった子だったからですかね。
なのでなかなか他の人では体験することのないこの状況を、今は前向きに捉えています。
というより、男でSLEで両人工股関節で元料理人で元ソムリエで元役者でという属性を持ち合わせているのは、世界で僕だけなんじゃないかと思えるくらいに前向きです!笑
話の方も段々そういう方向に向かっていきますので、どうかよろしくお願いいたします。
ここまで長文をご覧いただきましてありがとうございました。
これを見てくれている人にとって良い1日でありますように。