01-fabric-shirtのコピー

この火

清陵祭のクライマックスはファイヤーストーム。
1年生のときは、なぜ高校の文化祭のシメが校庭でキャンプファイヤーなのか、と疑問に思った。はたから見れば原始人の祭りだ。大きな火柱の周りを、がむしゃらに走りまわって泥を掛け合う。どこにも「文化」の要素はない。
ただ、実際にやってみると存外に楽しいもので、たった一度の体験で私はすっかり受け入れてしまった。
抗えない火の魅力。言葉にできない高揚感。私のなかにも祖先から連綿と受け継がれているヒトの本能みたいなものがあるんだなとしみじみ噛み締めながら、2年生になった今年もファイヤーストームを本当に楽しみにしていた。

なのに。
なのにだ。

文化祭の喧騒を遠くに聞きながら、私はひとり廊下にたたずんでいた。
すれ違った男子生徒が校庭へと慌ただしくかけていく。
夜逃げでもしたかのように校舎の中は荒れ果てている。いたるところに祭りの残骸が打ち捨てられている。かき氷のカップ、おびただしい数のチラシ、めちゃくちゃに貼り付けられた安っぽい紙リボン、風船、ストロー、片方だけの靴下。

ガランとした廊下に立って一人、涙をこらえていた。
泣きそうだ。
あと一歩、あと一歩でも校庭に近づいたら、本当に泣いてしまうかもしれない。

もうすぐファイヤーストームがはじまる。
祭りの終わりがはじまる。
あと五分もしないうちに松明を手にした点火隊が走りこんで来て、大きな火柱があがるだろう。それでも私は、静かな廊下で一人、動けないでいる。
友達に嘘をついて一人になった。

「トイレに行ってくる、すぐに行くから」なんて。

いよいよクライマックスを迎える。その高揚感と熱気のなか無邪気に笑う友達の前で涙を見せたくはなかった。ほんの5分前まで私もその笑顔の一人だった。
ファイヤーストームの最期の準備に「落書き」をしていた。   


ファイヤーストームに欠かせないのは非日常に染まることだ。だから生徒はまず、身体中に落書きをする。
きっとこの先二度と着ることのない、ぺらぺらのクラスTシャツを思い思いに汚していく。
マジックや筆を手に、服をはみだし腕に顔に。
「彼女ほしい!!」「変態王子」「ドMです♡」「青春終わるな!!!」
下品な言葉や謎の記号。ヘタクソな絵。儀式のまえに体を清めるように、私達もじゃれあいながらめちゃくちゃに体中を書きなぐる。
私がひなこの腕にミニオンのパチモノを書き終えたその時だった。

彼だった。
「俺にも書いてよ」

彼が背中を向け、生地の薄い白いTシャツをぴんと張る。
嬉しかった。ドキドキした。体温がぐっと上がる。
ペンを持つ手が小刻みに震える。何を書いていいのか頭は一切まわらない。
何も出てこない。気の利いた言葉も、面白い文句も、下品な落書きも。

何も考えられないまま、それでもぐっと指先に力を込める。左手を背中に添える。ペンがあたって、Tシャツがかすかに沈む。

「好き でした。」

思わず。
思わず書き始めてしまった。
でも、すぐに恥ずかしくなって「でした」と結んだ。
過去のことにしてしまった。
彼の背中の左端に、小さなオレンジ色の「好きでした。」

過去形じゃないのに。
今もなのに。
ずっと見ているのに。さっきも、あんなに嬉しかったのに。

彼の大きな背中の、左端の小さな、小さな場所。彼に見えない、彼の背中の。
なのに私は、正直になれない。
みんな気軽に書いているのだ。
「愛してる」も。
「ずっと好きだ」も。
たくさんのハートマークも。
なのに私は、そんな彼のたった一部にさえ、正直になれない。

馬鹿みたいだ。

じわっときた。

さっきより、右手に力が入ってしまう。奥歯をかむ。
泣いてはいけない。彼にもひなこにも、こんなとこを見られたくはない。
「トイレに行ってくる、すぐに行くから」

そろそろ行かないとひなこが心配する。
わかっているのになかなか足は動かなかった。
校庭の方から熱気を感じる。残骸だらけのこの校舎とは世界を隔てるように、歓喜とざわめきは大きくなっていく。

汚れた腕で目をこすり、大きく息を吸って、校庭へと走り出した。
清陵祭のクライマックスはファイヤーストーム。
すべてを燃やし尽くす、大きな大きな火柱が清水が丘に輝いている。

そう。すべて燃やしてしまうのだ。
文化祭の残骸をすべて。
準備中の気だるさも、放課後の喧騒も、夜のカップラーメンも、ステージの熱気も、私の気持ちも。
オレンジ色の小さな「好きでした」、も。
燃やしてしまおう。そう思う。燃やしてしまわなければならない。
燃やし尽くすために。私も今は原始のヒトに戻らないといけない。
身体中を汚して、泥を掛け合って、息が上がるまで走り回って、叫んで、歌って、踊って。

汗か泥か、絵の具か涙か。このぐちゃぐちゃの顔では誰にも表情なんてわからないだろう。私自身、いま私がどんな顔をしているのかよくわからない。
めまぐるしく変わる感情の渦にかき回されながら、めちゃくちゃに炎を囲んで回り続ける。そこには純粋しかない。純粋な炎だ。何のためでもなく、ただ燃えるために燃える。私達もいま、純粋なヒトだ。文化なんて矮小なものをすべて捨て去って、原始へ向かって私達は走る。

ここには誰も指導者はいないし、誰の指示もない。ぐるぐる。ぐるぐる。走る。走る。名前もしらない生徒の背中を追って、追われて、火とヒトが1つになって、一心に空を赤く染め上げていく。


いつか、燃え上がる恋、というモノをするときが来るだろうか。
その時、こんな感覚を私は覚えるだろうか。
ぐるぐる。

ぐるぐる。



ファイヤーストームが燃え尽きると、暗闇が広がっていた。
ついさっきまで、全てを燃やし尽くして世界さえも終わるのではないかと思ったのに、いつもどおりの静かな夜が来ていた。

男子がTシャツを脱ぎ捨ててそこかしこで上裸になっている。女子はシャワーを浴びて着替え、どこからみても“善良な高校生”に戻って、あの一体感が嘘のように散り散りに帰路につく。
もちろん名残惜しさもあるけれど、不思議な達成感もある。
燃やし尽くしたのだ。気持ちよく。すべて。
清陵祭が終わった。私が、この火とともに終わらせた。


正門から階段をくだって坂道へ出る。
熱気を引きずる生徒の中に、ひとり。
白いTシャツが目につく。


彼だった。


こちらを見てはにかむ。
不自然に襟首がつまったTシャツは前後逆だ。
彼が、お腹の右端、その一点を指差す。

小さなオレンジ色の「好きでした。」

体温がぐっと上がる。

あぁ。
当然だけど。
清陵祭は毎年やってくる。
ファイヤーストームはまた来年も燃え上がる。
燃え尽きることはない。
終わらせることなんてできないのかもしれない。
ゆるやかに続く火種があるのだ。

体温がぐっと上がる。
胸の奥で小さなオレンジ色の火があがるのを、
そんなふうにしみじみと噛み締めている。

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