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桜花2ラバウル編2

 現場では、敵爆撃機が一機、小さな鳥に囲まれた怪鳥のように飛んでいた。
「ちぇ、大きい獲物だ」
 杉本は口惜しそうに舌打ちをした。敵機はB17である。正式名称をB17フライングフォートレス、空の要塞と恐れられている米軍の爆撃機だ。爆弾を抱えて飛来し、基地に空爆を仕掛けてくるこの飛行機は、零戦が追いかけていくと、投弾前であるというのに、惜しげもなく爆弾を投棄し身軽になって逃げていく。零戦ではなかなか自身に追いつかないことを、知っているのだ。
 今日は、陸攻爆撃の直掩に出ていた橋本たちが、帰投中に自分らの基地へと向かうB17と鉢合わせた。友軍機は、残った弾で頻りに攻撃を仕掛けている。この敵には、守る戦闘機が一機もいないために、橋本らの動きにも余裕が見られたが、この爆撃機の場合、無謀のために護衛の戦闘機がいないというわけではないから、攻撃の効果はなかなか現れない。
 B17には、爆撃機に見られるような鈍重さはない。空の要塞と評される爆撃機は、単機で飛んできて、鳥の糞のように爆弾を投下する。投下後の動きの俊敏さは尋常でなく、その上、機体に据え付けられている機銃の守りも堅牢だった。
 零戦に集られているというのに、B17の飛行は安定している。周囲を飛び回る零戦をものともせず、優雅に速度を保ち、彼らを器用にかわして、眩い空の向こうへ飛び去ろうとしている。機銃を撃ってくる敵兵の黒い影が、からかっているように見え、橋本らは歯噛みする思いだった。だが、爆撃機ばかりを追いかけていると、陸攻の守りが疎かになる。もしかすると敵爆撃機は囮で、橋本らが離れた隙に、遠くでこの光景を眺めている敵戦闘機が陸攻を襲うかもしれず、なかなか思いきった動きが取れずにいた。
「戦況は」
 山崎は、直掩隊の指揮官機に寄り添った。指揮官機は風防を開け、機銃を指差し首を振る。弾を切らしたようだった。
 山崎は、彼らに陸攻と共に帰るよう合図を送り、自分の後ろについている杉本と純矢にバンクを振った。山崎の指示に、待っていましたとばかりに、杉本が敵へと突っ込んでいく。
 橋本たち帰投組の零戦が撃ちこんでいた七・七ミリではびくともしない敵も、杉本が撃ち込む二十ミリが当たれば、その装甲は耐えきれない。近頃、B17の攻撃のこつを聞いた杉本は、純矢と連携して敵機を狙う。
 何度か往復する頃には、敵も機銃を撃ちつくしたようで、銃座は静かになった。
 やがて、杉本の放つ銃弾は、吸い込まれる様にして敵の機体へと消え、機体が抱える発動機から、ようやく燃料が長い筋を引きはじめた。
 吸い込まれそうなほどに濃厚な青を湛えた空に、一筋の飛行機雲が流れていく。
 そこに、純矢が滑り込んできて機銃掃射した。被弾した敵機体は、突然激しく火を噴く。片翼があっという間に炎に包まれ、それを見た敵の搭乗員達は、慌てて機体を捨て、空中へ踊り出、白い花のような落下傘を広げた。
 火炎を見ながら、杉本は首を傾げる。機銃の弾には焼夷弾が含まれているが、それが当たったとしても、あんな容易に、そして突然着火するものか―不思議に思う間もなく、杉本は不意に視界に入った光景に、青ざめた。
 純矢が、落下傘に揺られて空を漂う、敵の搭乗員達を撃ち始めたのである。空に飛びだした彼らは、落下に身を任せるしかなく、無抵抗な姿を晒していた。避けることも、早期の落下も望めずに、ただ、気休めに拳銃を零戦に向けて撃っているようだが、その射撃にはどんな威力も威嚇の効果もない。無防備な彼らは、不気味に周囲を飛び回る零戦が横切るたびに、機銃で体を無残に砕かれ、肉の塊となって海面へ落ちていった。血と肉が、まるで果物が砕けるようにして飛び散る。そして、撃たれる順を待つ間の、恐怖と悲壮に顔を歪めて叫ぶ彼らの様子が、杉本にはよく見えた。
 雲一つない、眩暈を覚えるほどの蒼天の中で、たんぽぽの綿毛のように漂う落下傘である。その傘の下に吊るされている敵の肉体は、機銃で引き裂かれ、人の形も留めていない。飛散する血だけが、生き物であった証であった。
 純矢は執拗に、二十ミリで敵を粉砕している。
 上空で二人の戦況を見ていた山崎が、彼の凄惨な行為にすぐさま気が付いて、機を滑らせて純矢の横につき、懸命に手を振った。だが、純矢は頷くだけで、鮫が獲物を追いつめ食らいつき、体を捻じってその肉を引きちぎろうとするようにして、無力な敵の周囲を飛行し、ついには全員撃ち殺してしまった。
 純矢の、粘着的な敵への攻撃は、今に始まったことではない。彼は、狙った敵機は必ず落とす。落すだけではなく、搭乗員の命を確実に奪い取ってしまうまで、飽きずにその機を追回すのだった。敵が落下傘で脱出したのを見れば、それを撃つ。戦意を喪失した敵機が戦線を離脱していくのを、小突き回すように追って撃ち落とすか、海面激突に誘い込むかして殺した。敵の冷静さを少しずつ抉る様にして追尾したり、または追われるふりをして相手を興奮させたりして、海面や山肌に突入させることもある。
 純矢の、敵を殺すことへの固執は、我を失って深追いをするということとは違った。常に冷静であり、殺戮ということに貪欲なのだ。なぶり殺すように、絞め殺していくように、刃物で死に至らぬ箇所を少しずつ切り取るようにして、相手を窮地に追い込む。もしくは圧倒的な操縦の腕前でもって、即座に撃墜―彼の場合、殺害という言葉の方が相応しいかもしれない―海軍航空隊の戦闘で、敵の死を間近に見るなど、ほとんどないのだが、純矢の空戦では、流血が間近に感じられた。
 右目の視力は失われているらしいというのは、あくまで周囲の者たちの憶測である。だが、そのくせ純矢の警戒は、両の目だけでは把握しきれない領域にまで及んでいたから、敵機を見逃すことは決してない。彼に発見された敵機は、操縦席から飛び出す余裕も与えてもらえない。機体は、好んで弾を吸い込んでいるようにして被弾し、木の葉のように失速、翼が折られ、尾翼を捥がれ、操縦席を吹き飛ばされ、落ちていくのであった。
 杉本の、操縦桿を握る手は憤りで冷たくなり、小刻みに震えている。純矢が殺したのは戦意を喪失し、戦闘行為を放棄した丸腰の兵だ。彼は、海面に浮かぶ落下傘から目を反らし、機首を基地へと向けた。
そこに山崎が近づいてくる。
 杉本は慌てて風防を開け、激しく拳を振り上げた。純矢の事を伝えたいのだが、零戦の航続距離を少しでも伸ばすために、重たい無線機は外してしまっているから、身振りで怒りを表すことしかできず、もどかしい。
 操縦席の山崎は、頻りに前方を指している。つい自分の感情を伝えることに躍起になって、山崎の手信号を見落としていた杉本は、首を竦めてその方向に首を回した。
 一機の零戦が、不安定に彷徨いながら飛んでいる。
 それは、橋本らと攻撃に出ていた零戦であった。
「小沢!」
 杉本は届かぬ声を機内で張り上げ、その機の搭乗員の名を叫ぶ。
 機の故障なのか、撃たれたのか、小沢は橋本らについて飛んでいくことができず、それでも必死に操縦かんを操り、飛行していた。その小沢機に、戦闘を終えた山崎たちが追いついたのである。
 山崎は、彼の機を守るようにして横に並んだ。手信号を送ると、小沢は肩を指し示して首を振る。時折機体は水平を保ち切れず、傾いた飛行になるところから、怪我の重さが推測された。
「基地まで頑張ってくれ、もうすぐだ」
 山崎がバンクを振って集合をかけると、杉本と純矢が、小沢を抱きかかえるようにして編隊を組んだ。
 二機は、山崎と小沢の上空を見張るようにして、後ろと前を陣取っている。山崎はひとまず安堵し、目を細めて機番を確認した。先頭に杉本、背後に純矢の配置のようだ。
 純矢の機影に振り返りながら、山崎は先ほどの四散する敵の肉片を思い出す。戦線を離脱した敵機を追うな、落下傘で飛び出した敵を撃つなと、山崎はこの行為を確認するたびに純矢に説教をしているのだが、純矢はご心配なさらずと無表情に返答するだけで、止める気配はどこにもない。
 今日もまた、同じ光景が青空に生み出され、人間であったものが海面に散った。主を失った落下傘が、銀粉を蒔いたような、太陽光の煌く海に浮かび、やがて沈もうとしていた。
 透けて見える水面下には、黒い鱶の影が幾重にも重なり、蠢いていた。時折白く海面を波立たせ、鱶は程よい大きさになった人肉を食っている。
 山崎は低く呻いた。やがて、この場所には敵の救難機か潜水艦がやってきて、撃墜された機の搭乗員を探すだろう。鱶は純矢の行為を隠ぺいするであろうか。山崎は虚ろな思考を胸に秘め、漂っている黒煙が薄くなりつつある静かな空を、後にしたのだった。

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5,170字

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