見出し画像

桜花2ラバウル編4

 連日、敵基地への空襲を続けている。米豪の遮断やラバウル航空基地の防衛のために、どうしても攻略しなければならない場所があるのだ。そこには連合国軍の基地があって、開戦以降、米国は豪州に拠点を置き、基地はその拠点の最後の防衛地点であった。
 一式陸攻が、基地への投弾のために、たくさんの爆弾を腹に抱えて飛ぶ。それを零戦隊が守るのである。
 熱帯の木々が黒々と覆う高い山が背骨のように横たわる島の海岸に、敵はいる。ここのところ、敵は零戦と直接戦うことを避け、弱い立場の爆撃機である陸攻ばかりを狙ってきていた。敵は基地に爆撃を受けつつも耐え、一式陸攻が爆弾を落としきって帰途に着くまでの間、そのそばにぴたりと寄り添っている零戦がいる限り、我慢強く隠れている。正攻法では零戦に勝てないから、とにかく一式陸攻のみを獲物とした。
 戦闘機に乗る搭乗員は、守ることを受け身と考える一面があった。いち早く敵を見つけ、先制するのが必勝の手段である。だから、弱い一式陸攻を守る意義を戦闘機乗りらは分かってはいるものの、敵機を見てしまうと、それが囮であるにも関わらず、爆撃が成功した身軽さも手伝って、一式陸攻から容易に離れてしまいがちだった。そして丸腰同然となった一式陸攻は、敵戦闘機に待ち伏せされ、撃ち落とされてしまうのである。それが敵の作戦であり、陸攻は消耗を強いられていた。
 日本軍側は、すぐさま敵の企図に気が付き、零戦隊を直掩隊と邀撃隊に分け―分ける作業も畑作業の当番以上に困難を極めた―このため、士官は、敵撃墜数が何よりの勲章である下士官らを優先的に邀撃隊に回し、己は守りに徹していた。最初から守るものと攻めるものとに任務を分け、その功績を評価することで陸攻の被害を抑えようとしたのである。
 この日、杉本は邀撃隊の第二小隊長として、直掩隊である山崎の第一小隊の後ろを飛んでいた。既に爆撃は成功し、敵機も順当に迎え撃って、こちらの損害は皆無である。零戦はいつでも無敵であったし、直掩隊も任務をきちんと果たしており、ここのところ陸攻の被害も少なくなっていた。
 空爆の帰り道、送り狼の敵も追い払ってしまうと、やがて山越えを迎える。ここまで来れば敵も深追いはしてこないが、深い熱帯の緑の影に隠れている時があって、この島を離れないことには気が抜けない。
 杉本は周囲の警戒を続けながら、山崎の二番機を眺めていた。
 二番機は純矢である。南の強い太陽光を弾き、226と書かれた尾翼が輝いていた。
 横須賀にいた頃には、奇異に感じた彼の言動や行動も、陸軍だからと思えば納得いくものであったが、戦場に来ると、やはり彼の異質さが目に付いてきていた。
 捕虜殺しでも空戦でも、純矢は敵を殺すことに最も執着している。陸軍出ではあるが、戦闘機乗りとしての腕は確かであったから、空戦の合間に杉本は、純矢の攻撃法を学ぼうとして、彼の機を見続けているのだが、空での彼も、何か相容れぬものを持っていた。
 その操縦法だけを取ってみても、機体のみならず、純矢は搭乗員の身体的精神的限界を無視して飛んでいる。どのように操作するのかを聞き、実際に試してみたが、杉本は気を失いかけた。そうであるのに、純矢は基地に帰ってくると、何食わぬ顔で機から降りてくる。食べ忘れたバナナをかじりながら、悠々と指揮所に向かうこともある純矢は、疲労などといったものとは全くの無縁で、屈強であるとか精神力であるとか、そういったものすらも超越していた。むしろ、額に浮かぶ汗の玉が白々しいほど、彼には生き物の印象がない。
 山崎の機がバンクを振った。前方に敵戦闘機が見える。三機のP39がこちらに気がつかず飛んでいた。杉本はあちらこちらと目を動かして空や海上を見たが、この三機しか敵はいないようである。
 するすると、純矢が杉本の小隊に寄ってきた。風防を空けて杉本に何やら手を振る。
「直掩隊はそのまま一式陸攻に従って帰投、邀撃隊の第二小隊と第三小隊は、敵機を追え」
 山崎は、純矢と敵機を会わせたくないらしかった。
 そんな上官の心情を酌みつつ、敵機とやり合う方が好きな杉本は、ひらひらと手を振って了解し、列機を率いて敵機を追った。
 数も零戦が勝り、その性能も腕も勝るとあって、敵に勝ち目はない。
 だが、越えたばかりの緑の深い島の山が、少しばかり不安である。敵と味方の基地の間に立ち塞がるこれは、防御にもなれば、障害にもなる。戦闘に気を取られると、迫る山肌の存在を忘れてしまい、気が付いた時には回避もままならず、そのまま激突してしまう。杉本自身も、弾を消費することなく、ただ追い回すだけで、山に吸い込まれた敵機を何度か見たし、自身も危うく激突しそうになって、寸でのところでジャングルを構成する枝葉を掠めて回避することもあった。自分を守ってついてくる列機を思えば、より一層用心してかからねばならない。
 燃料も弾も十分にあることを確認すると、杉本は敵機の下に潜り込み、突き上げるようにして急襲した。彼らは、杉本が機銃を撃つまで、その存在に気がついていなかったようで、一番機の翼がもげると、慌てふためいて編隊を解き、各個が好きな方向へと逃げ出した。
 杉本は一機を屠り、逃げた敵を追う。黒々とした森の上に、鋭利に光るものがあった。
 それは山肌を滑るようにして、敵基地へと飛んでいる。
「帰ったって降りられねぇよ」
 先ほど敵基地に爆撃をしたばかりなのである。滑走路にはきちんと大穴をあけてきたし、黒煙が視界を邪魔して着陸を阻むであろう。
 燃料に余裕はある。もうしばらく追うことは可能なはずだ。杉本は機首を翻して、その一機を追おうとした。
 突然、機体に衝撃が走る。杉本は本能的に機首を上げた。列機らは慌てて高度を取る。
 イソギンチャクの触手のように揺れる木々の中に、輝きを放つ翼が見えた。
 敵が隠れていたのだ。
「野郎!」
 杉本の怒りは、油断をした自分と、敵機とに向けられていた。だが敵も、単身でそれ以上彼らに手出しをすれば、身が危ういことは百も承知だ。あっと言う間に遁走してしまい、杉本は、追うにしても、今度は自身の死線を越えてしまいかねず、歯ぎしりをする思いで機首を基地へと向けたのだった。
 操縦席で罵りの独り言を、照準器相手にぶつけ続け、やがて基地のある島が見えたころ、二機の零戦が、海岸線の上空で旋回しているのが見えた。彼らは杉本達を認めると、弾むような飛行で彼らに寄ってくる。
 機番でそれが山崎であるのを確信し、杉本は早々に風防を開けた。この時ほど、無線機が欲しいと思ったことはない。今しがたの悔しい思いを、山崎に聞いてもらいたくてたまらなくなり、杉本は操縦席から顔を出している山崎に手を振った。
 だが、山崎は落ち着きなく機体を揺らし、頻りに手を振って何かを指し示してくる。杉本は苦笑して、首を振った。
「心配性だなぁ、隊長は。どこもやられてませんって。むしろ一機撃墜ですよ」
 珍しく純矢も寄ってきて、横にぴたりとついて離れない。
 その異様な光景の原因を、間もなく杉本は理解した。
「早く高度を取れ」
 山崎に誘導されるがままに、杉本は高度を取った。世話焼きにもほどがある、と半分苛立ちが芽生えていた杉本だったが、次第に機体が不安定に揺れ始め、山崎の指示通りの高度が取れないばかりか、速度すらも落ちていくことに気が付いた。そうこうしているうちに、発動機が頼りなげに時折咳をし始める。何か焦げ臭いような操縦席で、杉本も咳をした。
 あと基地までどのくらいか、と彼は何気なく燃料計に視線をやった。
 絶句し、血の気が引いた。燃料の残量がほとんどないのである。
 撃たれた時にパイプをやられたようで、燃料が漏れてタンクは空になったようだった。その上、潤滑油までもが漏れ出しているようで、発動機が苦し気に回転数を落とす。列機に振り返ってみると、山崎の指摘でやっと上官の異常に気が付いたのか、不安げな顔が分かるほどに近寄ってきていた。しかし、慌てたところで打つ術はない。機体から炎が出ないだけ運が良かったが、不規則になるプロペラの回転を見ると、今に焼き付いて燃えだしかねない。
「頑張れ、もう少しだ。もう少し行けば基地が近いから、海へ降りろ」
 山崎は手信号でそう伝えてくるが、どうにも機体が言うことを聞かないのである。体はどこもやられていないのだが、機体のどこかを撃たれているために自由が利かない。この歯がゆさは形容し難く、杉本の苛立ちは増していく。
 杉本は操縦席を見回した。落下傘は持ち込んでいない。尻の下に敷いてあるのは、母が縫ってくれた座布団だけであった。落下傘を持ってさえいれば、生存への一縷の望みはあったろうかという思いが、一瞬杉本の脳裏に閃いたが、純矢が撃った敵の落下傘の白さを思い出し、舌を出した。
 落下傘を使う時は零戦が死ぬ時だ。愛機を海上に捨て去る覚悟など、そもそも杉本にはない。
「俺、このまま森に降りてみます。生きていたら必ず基地に帰りますので。それでは」
 聞こえるはずのない山崎へ、杉本は大声で怒鳴り敬礼をする。だが、口元は引きつって歪み、敬礼をする手が震えていた。
山崎は、杉本の覚悟を悟ったのか、身を乗り出すようにして操縦席から手を振る。
「馬鹿! もっと頑張れ!」
 しかし、山崎の言葉を無視するように杉本の機は失速していき、焼き切れそうな発動機が白煙を激しく吐き出しながら、やがて彼の機体は熱帯雨林の中へ吸い込まれていってしまった。
「杉本!」
 豊かな木々の葉の間からは黒煙も上がらず、炎も見えてはこない。逞しく島を覆いつくしている植物の上空を、狂ったように回り続ける山崎のそばに純矢が寄ってきた。無表情の顔が操縦席から覗き、極めて事務的な動作で基地を指差した。
 悲鳴を上げる山崎とは対照的に、純矢はすでに杉本の列機を集めており、冷静に山崎に引き上げを要求した。
 山崎は、杉本の部下らが首を横に振っているのを見、やっと落ち着いたものの、どうしてもその場を離れる気になれなかった。だが、残った部下たちの燃料もやがては尽きる。
 彼は唇を噛み、純矢と一番機を交代して、基地へと機首を向けたのだった。

ここから先は

3,017字

美しく輝く紺碧の海と空での戦争。 敵は生きて帰さない。 それは殺しきれない敵を前にしても変わることはない。

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得!

よろしければ応援お願いいたします。いただいたチップは、作品を書いている朝活の際のコーヒー代に使わせていただきますm(_ _)m