
桜花2ラバウル編7
巡る季節のない南の島である。活発に噴煙を吐く火山が灰を降らし、芋の葉はそれでも陽に手を伸ばすように成長する。
連日の空戦に搭乗員らの疲労は積み重なっていく。絶え間ない空戦で痛めつけられる肉体に、蚊によってもたらされるデング熱やマラリアが襲いかかり、寝込むものも増えていた。だが、人も物も薬も、補充は十分と言い切れず、むしろ敵は徐々にその数を増やしているものだから、ますます搭乗員らも整備員らも休む暇がない。
杉本はベッドで腹を抱えて唸っていた。その横で、軽蔑しきった顔の純矢が、航空服に身を固めて立ち、鞘の先で杉本を小突く。
「腹が減っているからと、椰子の実をたくさん食うからだ」
同じ島には、陸軍の部隊も駐屯していた。彼らは海軍航空隊よりも様々な職業を持つ兵を抱えていて、部隊一つで生活の全てが完結できるほどである。作家もいたし、大工もいる。農民もいれば漁師もいて、日雇い仕事で暮らしてきた者もいた。
純矢は整備がないと、時折陸軍の部隊に顔を出していた。兵らに交じって様々な技を教えてもらったり、彼らの作ったものと海軍の糧食を交換したりした。山崎の腕時計のバンドを直したのも陸軍だし、壊れた機材を継ぎ接ぎして懐中電灯を作ったのも彼らだった。
自給自足を旨とする彼らは、椰子の実も、木登りに長けた者が担当して採取し、保管している。純矢はその技術を教わって戻ってき、陸軍との交流にいい顔をしない山崎をよそに、するすると木に登り、椰子の実を山と積んだ。芋に食べ飽きていた杉本は、さっそくあちらこちらの椰子の木から収穫した果実を、腹が膨れるほど食ったのである。
案の定腹が下り、その日の夜から便所と寝床の往復となった。あまりにひどい下痢で、尻が痛くなってきているが、そんなことなどお構いなしに、便意は止まらない。
「貴様、以前も同じことをしたと橋本が言っていた。馬鹿なのか」
「うるせぇ、芋は飽きたし、酒はねぇし、俺は煙草を吸わねぇし」
「貴様ら、芋で酒を作っていただろうが」
「俺、焼酎は苦手なんだよ」
純矢にすら聞こえる腹の音が、杉本を内側から突き上げるようにしている。便所へと駆け込み、またベッドに戻って横たわるということを繰り返しているのだが、下痢が落ち着いた頃に純矢が来て、痛む尻をさらに痛めつけるのである。
「貴様! 痔になってんだから、俺の尻を丁寧に扱え!」
「何だ、それは」
純矢は、言われた通り、尻ではなく後頭部を小突くことにしたようで、杉本の視界に朱色の鞘が迫ってくる。今に軍刀を抜くのではないかと、腹痛に唸りながらも杉本は気が気ではない。
「椰子の実のせいで飛べないなど非国民だ、馬鹿。隊長殿が編成に悩んでいた、起きて飛べ」
「あぁ、どうせ非国民ですよ、どうせ馬鹿ですよ、何とでも言え。操縦席を糞まみれにするくらいなら、安いもんだ」
言い争いながら、激痛の波が押し寄せる度に、杉本は息も絶え絶えになる。
そこに、同じく装備を終わらせた羽田が、水筒に水を汲んで戻ってきた。
「杉本上飛曹、大丈夫ですか」
不安げに杉本を覗き込む顔に、杉本は呻く。
「どこ見て大丈夫って聞くんだ、馬鹿野郎」
辛うじて返答する状態の杉本に、羽田は小さく頭を下げて謝り、そっと水筒を横に置いた。
「今日から二番機になりました」
「……あぁそうか……そうだった……今日からだった……」
「秋田上飛曹の二番機として行ってまいります。次の時は、山崎大尉にお願いして、杉本上飛曹の二番機にしてもらいますので、それまでに腹を治して下さい」
今までの戦果もあって、羽田は念願の二番機の位置を確保したのである。
二番機は一番機を守る大事な場所だ。羽田は、いつか必ず杉本の二番機にと心に決めて日々学び、空戦の腕を鍛え続けてきたのだが、いざ昇格したとたん、小隊長の杉本が飛べなくなってしまった。それでも羽田は、初陣の頃から共に杉本について飛んでいたから、彼を本気で心配していたし、また、二番機の初陣が杉本と一緒でないことを、ひどく残念がった。山崎もそのことを気遣って、何とか編成を切り盛りしようとしたのだが、疲労や病気で飛べるものが少ない。皆、よほど歩けない状態でなければ飛んでいるのだ。どこにも故障がない羽田を編成に加えないなど、到底できるはずもなかった。
「すまん、申し訳ない。今日は何で飛ぶんだ。直掩隊か」
「いえ、邀撃隊です。二番機だから気張って来いって、山崎隊長が遊撃に入れてくれました」
「そうか。よかったな、頑張ってこいよ。小隊長にちゃんとついていくんだぞ。見張りは怠るな。ただし、三番機の面倒も見るんだぞ。いいか、一番機から絶対に離されるなよ」
「はい。頑張ります」
そんなやり取りの感情が読めないのか、純矢はお構いなしに、杉本の鼻先に小さな箱を押し付けた。とたんに杉本は箱から漂う刺激臭に顔をしかめ、声を上げた。
「くせぇ! 何だこれ!」
「征露丸だ」
「知ってるよ! なんで貴様が持ってるんだ!」
「隊長殿が貴様に渡すようにと」
純矢は、それを杉本の枕の下へ押し込むと、羽田を促して出ていった。外からは勇ましい零戦の発動機音が響いてくる。
杉本は藁にも縋る思いで征露丸を口に押し込み、羽田のくれた水で胃に流し込んだ。とにかく一刻でも早く、すべて腹から出し切って、下痢から解放されたかった。いっそあの臭い便所で寝起きをしても構わないほどである。
杉本は、再び訪れた腹痛に、大きな体を丸めて枕に顔を埋める。征露丸の匂いがその痛みを駆逐するような気がして、必死に枕に顔を押し付けていた。そうしているうちに、薬が効いたのか、椰子の実が退散したのか、気が付けば杉本は眠り込んでいた。日ごろの疲れのために、征露丸の悪臭もそれほどの障害にならなかったようだったが、戻ってきた零戦の爆音で、彼は目を覚ました。
腹の下る気配もないので、杉本は水筒を持って滑走路へ出た。白湯のような水を喉に流し込み、空になった水筒を腰に吊るして整備員の列に並ぶ。空には翼から黒煙の尾を引いて、ふらつきながら着陸態勢に入る陸攻がいた。陸攻は本来、もう少し西の飛行場に降りるのだが、そこまで飛行する余裕はないのだろう。その周囲を、心配そうに零戦が数機飛び回っているのだが、何機かは自身も撃たれているようで、陸攻を待ち切れず滑走路に滑り込んだ。まだプロペラの回る中、整備員が取りつくと、傷ついた搭乗員が顔を出す。
杉本は、心を握り潰さんばかりの不安を紛らわすため、目で零戦を数える。今日は何機で出ていったか、指揮所に寄ればよかったと思ったが、気が急いて今更見にいく気にもなれない。一秒たりとも、空から目を離したくなかった。ここのところ、三機編隊を組めないことも多いのだが、一小隊二機として数えても、帰投する零戦の数が足りない。
そのうち、陸攻が尻もちをつくようにして着陸した。胴体にはあちらこちらに穴が開き、機銃が据えてある場所に人影はない。風防は破れ、ひどい深手を負っているのが遠目でも分かるほどだが、それでも見事な着陸だった。その姿に安堵したのか、残りの零戦も流れるようにして降りてくる。
零戦の胴体に、白くマフラーのようなラインがあるのが、指揮官機だ。
「隊長!」
ひどい負け戦の様子に、杉本は待ちきれず、山崎機に駆け寄る。
「大丈夫ですか!」
降りてきた機に声をかけると、山崎が顔を出した。青ざめてはいるが、どこも撃たれてはいないようだった。杉本の切羽詰まった問いに、彼は無理に微笑んだ。
「敵の数が多くてね、やられたよ」
山崎の機には、一発の銃弾も撃ち込まれておらず、オイルが漏れた跡もない。出ていった時と同じ姿をし、やがてプロペラが止まった。
背後で悲鳴が上がった。陸攻から饐えた匂いが漂ってき、二人は慌てて陸攻へ向かう。
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