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桜花2ラバウル編8

 けたたましく響く、鍋の底を叩いて敵襲を知らせる警報音で、暑さを逃れて椰子の木陰で一服していた山崎達は、一斉に愛機に向かって駆け出した。
 走ると、足元には土煙が上がる。航空服には固まった灰が石ころのように付着していた。火山灰を含む滑走路は、敵の空襲のたびに大穴が空くが、日々総出で埋め戻しているので、離着陸には困らなかったが、そこはまるで耕した畑のようになっていた。一機が飛び立てば、土煙で一寸先も見えないほどである。
「まったく、口の中が土の味だ!」
 走りながら杉本が唾をはき捨てると、黒い土が混じっていて、ますます彼は悪態を吐く。
 純矢は顔をしかめ、並んで走りながらも刀を抜きそうな勢いで咎めた。
「暑い、腹が減ったの次は、それか。貴様うるさいぞ、少しは黙れ」
「よく言うぜ、貴様だって埃まみれの零戦は嫌だと言っているじゃないか。全く格好悪いったらありゃしねぇ。俺はこんな埃まみれで戦うなんざ聞いてねぇんだよ」
 二人は、悲惨な戦況の中でよく話す。ほとんどの場合が他愛もない、まだ思春期にも届かない子供のような、そのくせ双方割合本気の口喧嘩であったが、飛べば帰ってくるかどうかも分からない中で、それはひどく生気あるものだった。
 愛機の周りで、整備員たちが喧騒を聞きつけて笑っている。束の間、緊張は消し飛んでいた。
「汚れなど構わん、視界がなくなるのが嫌だと言っている。そもそも灰は発動機に異常をきたす。だいたい貴様、一機でも多くの敵を撃ち落とし、国のために」
 純矢の抗議は、チョーク外せという声で中断される。
 二人は慌てて機に飛びつき、素早く操縦席に潜り込んだ。
 離陸してすぐ、遠くに黒い点が見えた。敵機である。高度を取るには時間が足らず、あまり優勢な位置で彼らを迎えることができそうになかった。小さな島々にあった観測所は数を減らしており、敵が近くに来るまで、その存在を察知できなくなっている。
「敵さんは、昔から補充が贅沢なんだよなぁ」
 視認できるだけでも、敵はこちらの倍の数だった。やがてそれらは雲霞のごとく空を覆い、青空は豆を巻き散らしたかのようになった。
 高度を取ろうとするが、時間が足らず、敵より上には飛んでいけない。それに、上昇できたとしても、零戦の取り柄である運動性を失ってしまうのだった。操縦桿を握る杉本は、周囲に視線を走らせる。飛び上がる際に確認した機番によれば、先頭を行くのは山崎だ。だが、後ろの二番機は分からない。
 その右後ろ、列機を従えて飛んでいるのは純矢だった。熟練下士官も士官も死んでしまって、数が足らない。士官が一人もいなくなって、無理に特務士官になった下士官もいる。山崎の部隊では、ついに純矢が小隊長を務めるほどになった。
 彼の機はいつでも226という番号を携えていた。軽快に回るそのプロペラを見、杉本は首を竦めた。
 純矢は愛機を改造したようで、一度だけ、純矢が非番の日に橋本がその機に乗ったことがあった。彼は帰ってくると真っ青な顔をして首を振った。
「ありゃ、人間が乗るものじゃない」
 使い慣れた機体と同じ操作をしたところ、加速がよすぎて腰が引けたと橋本は唸った。普段のものより小回りが効くために、体がついていかず、一瞬気を失ったとまで言うものだから、杉本は信じられずに整備員に何をしたのか尋ねた。
「壊れた零戦やら陸攻やら、たくさんありますからね。そういう部材を使って色々やらせてもらいましたよ。あれは、見てくれは零戦だが、中身は別物だ」
 純矢は零戦というものに拘らず、自身が求める性能を実現することだけを整備員に求めたようだった。整備長も思うところがあったらしい。整備長は、一度は設計技師になったが、その腕を請われて海軍に入った男だった。ついには、荒くれものの搭乗員と共にいるのが楽しいと、戦地にまでついてきてしまった変わり種である。純矢が飛ばない日、整備長は機体を滑走路の端に持っていって、彼の思うまま改造を始めた。もちろん他の機を整備しながらの作業―杉本は、純矢が別の機体に搭乗した記憶はなかったけれど―純矢の愛機は、彼らの趣味の領域に深く入り込み、彼らの理想を具現化した存在になった。
 純矢が滑るように山崎機に寄って、バンクを振ったかと思うと、突然上昇を始めた。
 その瞬間、杉本の後ろを飛んでいた機が火を噴いた。別動の敵がいたようで、太陽から突っ込んできたのである。一機だけを撃ち抜いた敵は、大胆にも彼らの編隊を突っ切り、降下していく。
 それを追いかけて、一機の零戦が杉本の横をすり抜けた。
「織田?」
 いつの間に追尾の態勢を取ったのだろう。純矢の列機はついていけず、慌てたように反転し、純矢を追いかけていく。
 先ほど撃ち抜かれた零戦は、爆発と共に跡形もなく消え去ってしまって、黒煙だけが空の中、塵のように漂っていた。零戦は防御が全く無視されている戦闘機である。攻撃力を持って己を守るという思想の下で作られた分、一発撃ち込まれれば、翼の中に燃料タンクを抱えて飛んでいるため、すぐ火を噴き、消し飛んでしまうのである。
 純矢は、友軍機を落とした敵を手早く屠ってしまうと、蠅のごとく集る敵機の中で逃げ惑う列機をまとめ、空戦の輪に飛び込んだ。
 敵味方入り乱れての空戦である。
 再び、純矢の機が上昇に転じた。そのまま、上空で零戦を追い回していた敵機の腹に弾を撃ち込んで黒煙を吐かせると、次の獲物を探す。
 純矢の零戦に敵はこない。機番226という零戦は敵の中でも有名らしく、誰も挑んではこなかった。不意打ちを食らわそうと何機かが挑んできたが、全て純矢に察知され、撃ち落されている。
 純矢は、餌を蒔いて獲物をおびき寄せることもした。敵を追い掛け回すことに夢中になっている振りをして複数機を誘いだし、極限まで引きつけておいて、突然横転したり背面飛行をしたりと、相手が予想もしない動きをとって、一気に敵を叩き落すのだ。
 そんな純矢を守れる列機はいない。空戦の混乱の中で、彼らは何度となく純矢を見失い、反対に敵に食いつかれ、幾人かは帰らなかった。逃げようとして降下するが、敵機が食いついて離れず、その重力に耐えきれなかった機体が分解するか、その前に撃たれて四散するかしたのだった。
 今日の列機の一人は西川である。最近になって補充された新米搭乗員であった。土煙の上がる緩い滑走路への離着陸をやっと会得したばかり、空戦の腕は未熟で、今日の編制も、相当に山崎は悩んだのだが、搭乗員不足からやむなく純矢の列機とした。出発前、山崎が純矢に、列機を殺してはならないと言い含めていたのだが、相変わらず彼は部下を放置している。
 西川の操縦席の横を、敵の弾が掠めていく。空気を裂くような音は、敵の照準に己の機影が完全に収まっている証拠であった。
 遂に鈍い衝撃音が走って、機体が揺れる。機体のどこかを撃たれたらしいが、まだ火は出ないし、発動機は軽快に動いていた。
 西川は、純矢を追うどころではない。味方の動きももう見えていず、彼は死に物狂いで自分を追ってくる敵から逃げた。無我夢中で操縦かんを動かすが、どうやっても敵が離れてくれない。
 空戦に出られるようになってまだ日は浅い。そうだというのに自分はもう死ぬのであろうか、と悔しさと恐怖が入り交じり、全身は汗だくだ。落とした敵機もない戦闘機乗りという言葉が、脳裏に浮かんだ。
 近頃の搭乗員は短い訓練で甘やかされている、腕も落ちた―そう評されていつも悔しい思いをしていたが、実際のところ、飛行時間の少なさは否めない。だが訓練の厳しさは、熟練らと何ら見劣りするものではなかったのだ。西川は過酷な訓練の日々が無駄になるという思いが先走り、せめて一機だけでも敵を、体当たりしてでも落としたいという熱情に駆られた。
 やるなら今と、歯を食いしばり、操縦かんを握りなおした直後だった。
背後で爆音が起きた。慌てて振り向くと、黒煙を突き抜けて零戦が一機、彼の機のすぐ横をすり抜けた。
 226という白い文字が、目に焼き付けられる。
「織田一飛曹!」
 ついてこいと言わんばかりに翼を振るその零戦は、指揮官機の方に飛んでいった。
 西川は落ち着いて辺りを見回した。どうやら空戦は終わったようだった。 時計を見ると十数分程度でしかなかった。手袋もマフラーも、汗で湿ってい、航空眼鏡の隅が白く曇っていた。
 海上には、敵なのか味方なのかも分からない墜落の傷跡が浮かんでいた。真っ青な珊瑚礁の海に不似合いの油の紋が広がり、黒煙が漂っている。落ちた搭乗員の肉片に誘われた鮫が、不気味に油膜の周囲をゆったりと泳いでいるのが、黒く見える。
 それでも、こうして静かに眺める海はあまりに美しかった。西川は、先ほど体当たりを覚悟した時の、ひどい緊張感をどこか他人事のように思い出し、その落差に目じりに涙が滲んだ。

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