あるインドの民間信仰 Ⅱ

II

 ある日、ベンガルの小さなとある村で、近隣から一人の行者の女性が私に会いにきました。彼女は「Sarva-khepi」というその村の人たちから贈られた名前を持っていて、その意味するところは「あらゆる物事に夢中な女性」です。彼女はその星のような両眼で私の顏を見据え、その問いかけで私をぎくりとさせました―「いつになったらあなたは木々の下で私に会うようになるのですか。」明らかに彼女は私を憐れんでいました―いくつもの壁の向こう側に捕らわれて生きている者(彼女によれば)、彼女が住まいとしている、その『すべて』の素晴らしい出会いの場から消え去ってしまった者である私を。まさにその刹那に私の庭師が彼の籠をもってやってきて、それでその女性は、私の就くテーブルにある花瓶の中の花たちがこれから捨てられるところだ―新鮮なほうの場所をつくるために―と察すると、辛そうな様子になり私に向かって言いました『あなたは読むことそして書くことに懸かりきり。みていないです。』それから彼女はその捨てられた花たちを自分の手のうちに取り、それらに口づけをして自分の額でそれに触れ、そうして恭しく独り言を呟きました『心から愛しいよ』と。私はこの女性が、あらゆる物事のその真ん中にある限りのない人格を観るその直観の中に、インディアの精神を真に体現していると感じました。
 その同じ村で私は幾人かのBaülの歌手と交流することになったのです。私は彼らをそれぞれの名前ですでに知っていて、彼らが街の中で歌っては物乞いをしているのを折に触れて観ていたし、つまりは彼らの脇を通り過ぎてしまっていたのです、ぼんやりと自分の考えの中で彼らをその一般的な名前である「Vairâgis」とか禁欲主義の行者達と分類することで。
 その時はきました―私がその同じ集まりの幾人かの成員に出会って彼らに精神的な問題について話しかけることがあったときに。初めてのBaülの歌、私があらゆる注意を払って聴くことになったそれは、 深く私の心を掻き立てました。その中の言葉たちがあまりに簡素なので、外国の言葉で表して、さらにそれらを批判的な観察のために差し出すことを私にためらわせます。加えるに、一つの歌のその最高の部分が惜しまれるのです、旋律がないとなると―それによってその歌のもつ動きと色は失われ、そしてそれは羽を抜き取られてしまった蝶のようになるから。
 第一行目はこんな風に翻訳できるかもしれません―『どこで彼に出会うものでしょうか、「わたしのまなかのひと」に。』この句、「わたしのまなかのひと」はこの歌だけに特別なものではなく、Baül派には馴染みのものです。 それはこんなことを意味します―私にとってはですが―あらゆる存在の至上の真実とは私自身の人間らしさの中での「かぎりないもの」の開示にある、と。
 「わたしのまなかのひと」は、Baülにとっては、ある完璧に同調する神の楽器のようなものです。彼が生命の音楽の中で限りのない真実に表現をもたらすのです。そうして私たちの中にあるその真実への切望が―私たちがまだ自覚していないものですが―このBaülうたの中にほとばしり出ています。

どこで彼にあうものでしょうか、「わたしのまなかのひと」に
彼がいなくなって 私は彼を探す 岸また岸へとさすらって
わたしが無関心 あの美しい月昇なのに―私の生を照らすためにあるのに
ずっと見たいと願っているのに、満足な目で、心から喜んで

この歌を書いた詩人の名はGaganといいました。彼はほとんど文字を知らず―そして彼のBaülの師から彼が受けとった着想の数々には近代の自意識からの破壊が全くみあたりませんでした。彼は村の郵便配達人をしていて、ひと月に10シリングほどを稼ぎ、そうして自分の十代を全うする前に死にました。その情趣は、彼がこれほどに表現の集中を施したものですが、彼の宗派の歌のほとんどに共通のものです。そしてそれはこういう宗派です―ほとんどそれだけがあの社会のより低い階層に閉じ込められ、そこでは昨今の教育の灯が入り口ひとつさえ見いだせないのです、富裕と名誉がその徹底した貧窮を遠巻きにする中で。私がさきに翻訳したその歌の中では、彼自身の人格の中でその限りのなさを実現したいという歌い手の望みが表現されています。これはその完全な表現によって日々行われなければならないのです、暮らしの中で、愛の中で。人格のある生命の表現は、その完成においては、愛であるから―ちょうど、人格のある真実の表現がその完成において美であるように。
 近代の政治的な暮らしの中で民主主義の着想が人類に個人への信仰をもたらしてきました。それが一人一人の人間に、自分自身にある可能性への信頼を、また自身の人間性への誇りを持たせます。その同じ着想の何かが―と、私たちは気が付くのですが―インディアの一般的な思いの中にずっと作用しつづけているのです、その宗教的な意識に関連して。またも繰り返してそのことが主張しようとします、神は私達一人一人のためにある、というだけでなく、神は私たち一人一人の中にいるのだ、と。こうした人たちは彼らの簡素な神学にいかなる特別な権化をも持ちません、何故なら彼らは神が個別の一人一人に特有なものであるとわかっているからです。ひとりの人に生まれることはこの世界中の一介の創造物に起こりうる最高の特恵であると彼らは言います。楽園の神々は人間存在達を羨んでいると彼らは主張します。どうしてか。なぜなら、神の意志―その愛をおくるという―は、その愛をおくり返す人の意志をもってその完全さをみとめるからです。こういうわけで「人類」は神の真実を完全なものにするうえで、ある必須の要素なのです。「かぎりのないもの」は、その自己表現のために「かぎりのあるもの」の多彩ぶりの中へと降りてきますし、また「かぎりのあるもの」はその自己実現のために、その「かぎりのないもの」の統合の中にのぼっていくことになります。そうしてただあるのは完了した「真実の循環」なのです。

 人の尊厳というものが、その「しんじつであるもの」の永遠の正しさの中、以下の歌で表現を得ています―書いたのは、宗教学者の誰かでも文字の人でもない、その教育は初等にもはるかに及ばなかった、事実ほとんどゼロより低かった、あの英国領インディアの人口の90パーセントに属する無名の一人です。

私の願いはあなたに会うこと 愛の物語の中
 私の「あいするもの」に
でもこのせつなる願いが わたしだけのじゃない 
あなたのものでもある
だってあなたの口元はようやくほほえむ 
そしてあなたの笛に音楽 私の愛の中のあなたの喜びの中でだけ
だから その あなたは もどかしいな ひとのこといえないけど

 仮にその世界が創造の可能性を持つ諸力の表現にすぎないのなら、それならこの歌はその憶測のところで哀れを誘ったかもしれません。でも一体なぜ創造の中に美があるのでしょう―それが唯一言いたいことが、その応答として無関心を求めてくる呼びかけのなかにある、その美が。その詩人は誇らしげにこう言っています『もしあなたの喜びが私の愛の中になかったなら、あなたの笛はその美しい音楽を奏でることができなかったかもしれない。あなたの力はすばらしい―そこでは私はあなたと対等ではない―でもそれが私の中にだって潜んでいるのだ、あなたを微笑ませるために。そして私とあなたが会うことがないのなら、それならこの愛の劇は不完全なままだ。』
もしこれが真でなかったなら、この世界の中で存在することがそもそも完全な侮辱であったことでしょう。もしその「あいするもの」を探し出すことだけが私たちの唯一の関心事であって、神のは自分の栄光の限りのなさに自らを超然と待たせておくことで、もしくは自分の命令を私たちに課すことには達者にご活躍なのなら、それなら私たちは敢えて彼に逆らうべきで、奴隷身分という押し付けになった執拗さに潜伏する、永遠と続く嫌がらせを拒絶するべきです。そうしてこれがBaülのいうこと―彼、人の世の中で、戸口から戸口へと施しもののために歌を唄ってまわる者、その背には彼の一弦楽器と、長い、つなぎ合わせた襤褸布のローブ。

止めたそしてここで座るよ道の上 頼まないでこれ以上歩けとは
君の愛が私のなしでも完成できるなら
君に会おうとする私が引き返すままにしろ
君を探す旅を続けているんだ、友よ、もう永く
それでもお断りだ、君の姿をどうぞ一目と乞うなんて
君が私のどうしてもを感じないのなら。
私は市場の塵と真昼の眩しさで見えず
そしてこんなにも待つ 私の心の愛する人を
君自身の愛が君を遣わし私を見つけ出してくれたらと

その詩人はこの上なく自覚しています、自分の価値は世界の市場では悲しいほどに小さいものだと―つまり彼は富裕でも高名でもないと。それでも彼には自分の素晴らしい報いがあります、彼は自分の「あいするもの」の心の方へと近づいてきたのですから。ベンガルでは河で水浴をする女性たちがよくひっくり返した手持ちの水がめを泳いでいる自分たちを浮かせておくのに使うし、詩人はというとこの出来事を自分のたとえに使います。

よかったなあ 私がからのかめで
だってあなたが泳ぐとき そのそばで私がずっと浮いているもの
充ちたあなたの器ならだれもいない岸にのこされ 役に立つけど
私はあなたの腕の中 その河へと運ばれて
そうして躍るよ あなたの脈打つ心の拍子で
うねるその波にも乗って

 世界で名高い偉大な人たちは知りもしないことです、かれら乞食たちが―教育から、栄誉そして富から追放された者が―よもや、彼らの魂の誇りの中で自分たちを不幸な者として俯瞰することができようとは―その世俗的な用途のために岸にのこされる者、だがその人生は常に「あいするもの」の腕の及びを逸する者として。
 その感覚―人は世界という宮殿の門の前にあって単なる気軽な訪問者というわけではなく、むしろその最高の祝宴にその独自の意味をもたらすために参加を乞われている招待客である、という感じ―は、インディアのどの特別な宗派にも限ったものではありません。ここで西インディアの中世の詩人―Jnândâsの詩をいくつか紹介させてください―その作品群は忘れ去られてしまいそうになっていて、しかもそれらの秀逸さが際立った精妙さにあるせいで幽かになってしまったものなのです。以下の詩の中で彼は神の使者に話しかけているところです。私たちの子ども時分の朝のひかりの中、私たちの一日の終わりのうす暗さの中、そしてその夜の闇の中で私たちのところへやってくる者に。

使者よ、朝があなたを連れてきた、金色をまとって。
日が沈めば、あなたの歌は 行者のような灰色の一節を身につけ そうしてやがて夜がきた。
あなたの伝言はその黒のいたるところ 耀く文字で書かれていた。
何故あなたの周りはそんなにも壮麗、心を惹くためだといっても
何でもない者のためなのに。

これがその使者の返答です。

すばらしいのはその祝祭場 唯一のお客としてあなたがそこにいる
だからあなたへ宛てた便りが空から空へとつづられるのですよ。
そうして私は、自負ある従者、あらゆる儀式の招待状を運びます。

そうしてこのようにその詩人はしっているのです、その静かにいくつも列をなす星たちが個別の魂へ向けた神自らの招待状を携えていることを。
その同じ詩人が歌っています―

何があなたをその乞食に乞わせているんだ 王の中の王よ
「私の王国が侘しくて 彼の不足だ いとし子の それで悲しく彼を待つ」
いつまで彼を待たせておくんだ ああ情けないな 
永年お前を待った彼なのに 沈黙と不動の中で
開門だ、このたった今をその結ばれに適うものにするんだ

それは「至上の愛」から人に贈られて人自身の愛によって実現された価値への、人の誇りの歌です。
 『Vaishnava教』は、インディアの普及した宗教になっていますが、その同じ伝言を受け継いでいますーそれは、人の愛の中にその完成の姿を見つけだす神の愛。それに従えば、その「あいするもの」―人―はその「あいするもの」―神―の補完です―存在の内面での愛の劇の中で。また神の呼び声はその世界音楽の中、常に人の心の中に浮かんでいるのです、人をその統合へ向かって引き寄せながら。この着想は、いまや写実主義へと迫る濃密な入念さで数々の象徴を表現し続けています。しかし、かれらBaülたちにとってはこの着想は直接のまた単純なもので、真実という威厳ある美に充ちており、そこにはあらゆる装飾的な華やかさの余地がありません。
 そのBaül詩人は、なぜ宗派の印を額につけていないのかと問われたときに、彼の歌の中でこう答えました―本物の色の装飾は果物のその皮にあらわれるものだ、その内側の真ん中が、熟した甘い果汁でいっぱいになったときに―しかしわざと色でもってそれを外側から染めることでは熟させたりできないものでしょう―と。また彼は自分のGuru―彼の教師―について、どっちを向いてあいさつを送るべきか混乱させられるような、と言っています。彼の教師は一人ではなく、むしろ大勢で、動き続けており、歩いて旅をする一行を成す者であるから。
 Baülたちは自分たちの信仰のための礼拝所も像も一切もたず、またこの透徹した素朴さが、心の奥底での神の近さの実現を一つの課題とする人達にとって欠かせないのです。そのBaül 詩人ははっきりとこう言っています、もし人がその感覚を通じて神に近寄ろうとすると神とすれ違う、と―

彼を家に連れていくんじゃないよ―あなたの目のお客として
むしろ彼がくるに任せて―あなたの心の招待に応じて
あなたの扉をみえるものにだけあけるようでは―それは失敗

 それでも、詩人として、彼はわかってもいるのです、感覚の対象となるものは、単に肉体の目を通して見られるのではない時にこそ、それらのもつ精神的な意味合いの開示が可能になるのだ、と。

両眼に見えるは塵と現世のことばかり
だが心でそれを感じておくれ それはまじりけのない嬉しさなんだ
喜びの花は全ての面に咲く 一つ一つの形をとって
でもそれらを一つの花環に編むのに あなたの心の糸はどこ

 彼らBaülにはある哲学があります、彼らによれば身体の哲学という―とはいえ彼らはそれを秘密にしていて―つまりそれは、手ほどきを受けた者だけのためにあるのです。あきらかに、その根底を成す着想はこういうことです―個々人の身体それ自体が礼拝堂であり、その者の内なる神秘の聖地で「神」がその魂の前に現れる―またこのことへの鍵はこのことを知っている人達から見つけなければならない―しかし、その鍵が私たち部外者のためのものではないとのこと、私はそれをこのような観察とともにそのままにしておこうと思います―この身体の神秘の哲学は、彼ら自身のような人たちにとってあまりに負担の大きすぎる全ての外側の拠り所から脱却しようとすることの帰結である、と。ですがこの私たち人間の身体が神自身の手によって、神の自身の愛で造られているのだし、それにもし、お偉い人間たちが自分の優秀さを誇りにしてそのことを疎むことがあったとしても、なお神はより低い生まれであれ他の人に喜んで宿るのです。それは地所自慢の人達によってよりも、これら慎ましい門地の人々によってより発見されやすい一つの真実なのです。

 物乞いBaülの誇りは彼の世俗的な区分にはなく、神自らが彼にわたしたその区分にあるのです。彼は自分自身を神自らの愛の息が吹き込まれつづける一つの笛のように感じるのです。

私の心は笛のよう 彼がそれで奏でてきた―
他の誰かの手の中に落ちるなんてことがあったなら
投げ捨ててくれていい
私の愛するものの笛は彼のいとしいもの
だからもし今日 知らない息が入りこみ思わぬ節が鳴ってしまえば
彼はそれを粉々にして その節もろとも塵と散らせばいい

  こうして私たちはこの人が冒涜を嫌悪してもいるとわかるのです。富と権力の野心的な世界が彼をのけ者にしますが、自分の番になれば彼がこう考えます、その世界の関与は自分を貶める、自分は「あいするもの」の作法によってすでに神聖になったのに、と。彼は野望と業績の私たちの人生を全くうらやんでいないし、彼には自身の来し方がどれほど尊く存在しているかわかっているのです―

私は注ぎだされる 喜びと悲しみという 生きた音に あなたの息で
朝そして夜 夏にそして雨の中 私は音楽になりかわる
素晴らしい歌一曲に費やされていたらな…でも
嘆きもしない、その節がわたしにはとてもありがたくて

 私たちの喜びごとと悲しみごとは自己がそれらを対局に分離するときには相反するものです。しかし自己が神の愛と混淆するその心では、それらはその極端さを失います。なのでBaülの祈願はあらゆる状況で感じることです―危険の中、また苦痛や、悲しみの最中―自分は神の諸手の中に居ると。彼はその数々の苦痛からの解放という課題を、受け入れてより高い一つの脈絡の中に納めることで解決するのです。

私がその船 あなたはその海だし その船頭
あなたが岸を成すことなかろうと あなたが私を沈ませておこうと    私が愚かにも縮み上がるもんかね
その岸へ届くことが あなたを伴にして自分自身を失うよりも
素晴らしい賞かな
もしあなたがその空っていうだけなら―皆そういうが―それなら
何が海なんだい
そいつを押し寄せるままその波の上に私を放ればいいさ 私は満足といこう
私はあなたに住んでいるさ 何で・どうあなたが現れようが
救え私をでなければ殺せ私を のぞみのままに
他の手に任せるのだけはなしだ

(私訳)

原文はCreative Unity  その著者は Rabindranath Tagoreさん


(追記)一か所訂正しました。82行目(?)

誤=「こうしてこうして私たちはこの人が冒涜を嫌悪してもいるとわかるのです。』 ☞訂正後「こうして私たちはこの人が冒涜を嫌悪してもいるとわかるのです。」 以上です。