その森林という信仰Ⅲ ~これもまたVariety~
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奇妙といってよいほどに、シェイクスピアの戯曲には、カーリダーサのそれらにも似て、王の宮廷の造り物の生活-褒められたものではない背信と嘘の生活-に対するある隠れた不平の鉱脈を見出します。そうしてほとんど所を選ばず、彼の戯曲では、無節操な野望の人生の作用とでもいうようなものと関連して異質な場面が取り込まれています。それが『アテネのタイモン』では全くもってあからさまで-しかし、そこで大自然は人の傷ついた魂に伝えたい言葉も癒しの油もなにも勧めないのです。『シンベリン』では山あいの森林と洞窟が命の瀬戸際での障害物というその一面で姿を現します。これらは人為的な宮廷生活における栄枯盛衰というものとの比較の中だからどうにか浮かずに済んでいるというものです。『お気に召すまま』ではArden の森がその戒めの数々で道徳家じみています。それがこう口にするともたらすものは平和ではなくて御説教です。
懐かしい習いのおかげでこの人生 もっと優しくはなかったかい
虚飾で彩られたあの人生よりは
これら森林たちのほうが もっと無難じゃないかい
その羨まし気な宮廷よりは
『テンペスト』では、プロスペロのエアリエルとキャリバンへの処遇を通して自然相手の人間の苦闘また自然との関係を断ち切りたいという人間の望みに気が付きます。『マクベス』では裏切りと背信の血塗られた犯罪の序幕として、私たちは荒れ地のヒースの場面へ招かれるのですが、そこでは三人の魔女が大自然の悪質な諸力の化身として出現―そして『リア王』ではその不自然な宮廷生活から生まれた忘恩によって呪詛に変節したある父親の愛情のすさまじさ、それが、自身の象徴をそのヒースを襲う嵐に求めるのです。『ハムレット』や『オテロー』の悲惨なまでの激しさは大自然の永遠性のいかなる手ほどこしによっても救いようがありません。『ヴェニスの商人』の中である愛の情景につかの間顔を見せていく月夜の場面を除いては、この連作戯曲の他作品では大自然にはまったく出番がないのです、『ロミオとジュリエット』や『アントニーとクレオパトラ』を含めて、自然自身の音楽を人間の愛の音楽に贈ろうにも。『冬物語』では、ある王の猜疑の残酷さがあらわにもその執拗のままに立ち尽くし、そうして大自然は何の慰めも申し出ないでその前で身をすくませています。
これらの観察がシェイクスピアの劇詩人としての偉大な力を最小限に評価しようとするものではなく、彼の作品群にある大自然と彼の民族やその時代の伝統に根ざす人の自然との間の深い淵を示すためにあることはわたしが言うまでもないことと願います。彼の作品群で自然の美しさが無視されていると言えるのではないのです―彼は人間の生命とその世界の宇宙的な生命の相互貫入という真実をそれら作品中で認識し損ねているだけなのです。ある全く異なる心の態度がワーズワースやシェリーといった更に後のイギリスの詩人たちに見てとれますが、それは主にヨーロッパでのおおきな精神的変化に由来するものと考えられ、あの特定の時期に、ドイツの魂を呼び覚ましまた他の西洋諸国の注目を喚起したその新しく見出されたインドの哲学の影響があってのことです。
ミルトンの『失楽園』の中では、その主題そのものが―楽園の庭に住む人間が―人間と大自然との関係の本当のすばらしさを花開かせるような特別な好機をもたらすかに見えます。しかしその詩人が私たちに向けてその庭の美しさの数々を説明してくれているのに、そこで仲睦まじく平和のうちに暮らす動物のことを彼が私たちに示してくれているのに、その動物達と人間との間の親近感には現実の手触りが全くありません。彼らは人間の楽しみのためにつくられたのです―人は彼らの領主であり主人でした。当人同士を次第に越えてはそれ以外の生き物へと溢れだすような最初の男性と女性の人間同士の愛の痕跡は一つもみつからないのです、私たちが『Kumâra-Sambhava』 や『Shakuntalâ』の愛の情景で見いだすようには。そのあずまやの隠れ処、そこはその最初の男性と女性の人間が楽園の庭で休んでいた場所ですが、
『鳥、獣、昆虫や毛虫
敢えて入ろうとするものはありませんでした それが彼らの人への畏怖というものでした。』
あのインドは人の優位さを否定はしなかったものの、あのような優位性の確認が重きを置くのです、彼女によると、その優秀さの共感の懐の深さに、絶対的な優秀さというそのよそよそしさにではなくて。
(私訳)
原文は Creative Unity その著者は Rabindranath Tagoreさん