詩人の良心~読み手のカータ・テシー~

ここで「詩人の良心」は終わっている。読み進めている間にヤマネコアンテナ2%をつかい、🕷さんに都度都度登場してもらってこの世界を踏まずに通らなければならなかったという事態は、この論を読み始めたときには全く思いもよらないことだった。これより以前に出会ったタゴールさんの詩を読む時に、そのような心の準備をすることは全くなかったからだ。鳥はいつも鳥、異郷は異郷…それくらいのあたりまえ。壁は無い。でもこの論はもしかするとちょっとした防御の成分がある、たぶんその2%を私のヤマネコアンテナがピピっと…その2%でバンジージャンプというかジェットコースターというか…そういうものが構築されていたと感じる。らしくない…と思うし、早く歌の世界に返してあげたいと思う。(^^思い込み哉。
他の詩人の人生も含めて、ここに人の歴史がとりあげられていた。文明の中に生きる人の、自分の想う人らしさを生きたい気持ちと時代の都合が求める人間標準との摩擦で人が消耗するように生きるときのつぶやきが―そうなると後の時代に生きている自分が一方的に読ませてもらっている…だけにはならなかった。社会を創る時に、標準化したヒトなら組織として都合がよい…という理論で合理化のデザインが指向されたのだろうか…で、残念ながらとうに行き過ぎているのが現状ではないだろうか。それはタゴールさんが懸念したように。抑制のきいた「有機的」な社会集団―細部も生き生きしていないと全体も生き生きできないし一部切り捨てるなんて👻ヤーメテー👻―もあろうけれども。“machine” は機械的に働く人をも意味する言葉だそうだ。またOne とmany による Unity の概念が社会参加への肯定に重ね置かれると、今の時代が持つ競争化、特権を作る階層化を肯定している説に見えてしまう。一番の危惧は最初からそこにあって、最後までハラハラして読んでいた。ナカマウチを固めたら最高の人に指示を任せて他は黙って従うのが他社会に勝って生き延びる術だ、という話になるのか…そのための犠牲を受け入れるのが人間として立派な行いだと…。そんな論をみたくなかった。実際のところそうではなくて、個人が成長をしていく段階で、取り入れた知識や経験は豊富になるしかない中、たくさんの望みや将来の夢 many が次第とその人の人格を養っていく合成過程で一つにまとまっていくということ―そのプロセスを経る人は人類史上どの時代を探してもその人一人しかいない、それが人の中のOneだろう。そのO様(誰もそう)が自ら贈り物として社会に参加して一緒にそこで世界を創るのだ。強制はなし(^^暗黙の強制もね。
驚いたことにこの最後の章でタゴールさん自身がとある発芽と殻の脱ぎ捨て―チャペックさんのお🍵👀きわまりない表現がむくむく・もあもあ…―をしている、少なくとも私にはそのように見える。心の内にある間はそれが当たり前のことであっても、書くときにはとても勇気がいっただろうと思うのだ。誰かが書き下したフォーマットがない信仰告白、理想そのものを描くのに専用の絵具セットがない―自分の持つ象徴を使うしかない―をいくつもの表現に託し、届いた先で受け取りてによる印象 impression を通してきっとその世界が見えるという願い、実は言葉はなかなか絨毯のようになんてならない、はるかに大きな万象の一隅に架かるせいぜい網目だと思う―それでも―なのだから、そうすることを支えたのも詩人の良心であり、その世界への信頼の時間なんだろう。
ワタシは巨大歴史は苦手で…(^^; この論の諸手をとって 現実に引き起こしもした背景、社会情勢を、より確かに把握するためのはてなマークの道の扉も実に様々みかけたし、その道に従っていったらまた違う開けた景色がそこでその人を必ず待っていて大歓待してくれていることだろう。(この間数度タゴールさんの作品に関する論文も見かけた。)そういうものを集めたならばこの論は当時の文化への批判とも読めるのかもしれないし、明確に当時の同国人に向けて書かれたものと意図を推定できるのかもしれない。題名通りの内容での普遍性を期待したワタシとしては―母国語ではない英語でこれだけの言葉を選定し丹念に積み重ねて論述したかと思えば小さな生き物の代弁者のような詩も書く人が「知」の人でないはずはないのに、人の真実はそこにはないというので…詩人として生きることがどんなことなのか少し見える気がする。ということは「詩人の良心」、として、またワタシ版として、確かに受け取りましたよね💐ありがとう。

今ここでとてももやもやとした気持ちでいるのだが、それは久方ぶりに理想と現実の間の真空地帯を意識しているからに違いない。それを埋めてみよう。
ワタシは平等を信じているのだが、この世の命の顕れは一様どころか知っている範囲ですらいろんな広がりがあるものだし、その生命の存続をつなぐ一つ一つの命の生きようも個々に違って見えて、自分と違う姿かたちをとった生命、自分と違う日々の営み―例えば栄養の採り方とか―に遭遇すると見慣れないといってぎょっとしてしまう。それは同じ種で互いに相当似ている人間に対してもそうだ。そうした様々さに平等を取り持ってゆくことができる受け取り方…そんな視点なら美だろうと思うんだが…それは世界とのつきあいかたで、人がそれぞれ自分にもつこと…だから、見慣れないものは大問題じゃなくて、それは目に新鮮なのだろう。
先日ワタシ人生で初めて🐍さんと横並びに数メートルを歩くという体験をした。一つの狭い道をお互いに闖入者にならずに歩けた数メートルの平和にありがとうと思わずにはいられない。Give me hand-shake、🐍さん!-心の中でいいし(^^…どきどきしましたー💖霊長類序の口ですかー

次は“Creative Ideal”だそうだよ。🕷続きます!

読み手のカータ/テシーとは:現在の精一杯のところで読んだ感想を書き手に対して表明すること。そのように読み取った責任は自分にあること。あしたにはかわってしまうならそれもよいこと。