東と西 Ⅱ~これもまたVaraiety~

II


 最近私は、戦争によって壊滅させられてしまったフランスの数か所の戦地を訪問しようと出かけました。苦痛の皺を—無残な畝へと押し込められた死の悶えの数々を―刻まれたままのその荒廃のおそるべき静けさが、私の想いの前に一体の巨大な悪霊の映像をもたらしました―それは容を持たず、意味もない、そのくせ殴り破壊し引き裂くことのできる二本の腕や、貪食できる大きく裂けた口があり、そうして共に謀りあい計画できる膨れ上がったいくつもの脳を持っていました。それはとある目的でした、生きている身でありながら、それを調律する完全な人間らしさを全く持たないような。それが情熱だったからこそ―生命の一員でありながら、生命の一体さを持っていない—それは最も恐ろしい生命の敵だったのです。
 異なる程度でそれと同じ抑圧の感覚のようなものが、異なる面でのそれと同じような荒廃が私の想いの中に生み出されるのです、東洋の生活に対する西洋の影響に気が付くとき―西洋-私たちとの関係においての―は、人間の姿とった計画と目的ばかりだ、必要以上の人間らしさはないのに、と。
私はその明暗を日本にとても強く感じます。あの国ではその古い世界が相当な完成の理想をもってそれ自体を提示します―その理想では、人には自分で自分を開示する様々な機会があります―芸術で、儀式で、宗教の信仰で、そしてまた社交の関係の詩情を表現する習慣などの中で。そこでは誰でも、生命が生命へ提供する歓待の深い喜びを感じるのです。そうして他方では、その同じ国土に、その近代の世界が立っているのです―途方もなく大きく力強い、が、人寄せつけぬ世界。それには人間への無邪気な歓迎の気持ちなど皆無です。それが今、活発なのです、内包する人生の理想のその不完全さが人類を傷つけずにはおかないというのに。
 冷たい血の流れるようになってしまった功利主義の、のたうちまわる触手の数々-西洋はそれで、東洋のうちで容易に収益の上がる美味しい部分をすべてを掌握しました―それが、東洋の国々いたるところで痛みと義憤を今も生み出しているのです。西洋はやってきます、私たちのところへ、創りだしまた結ぶ想像力と共感をもってではなく、情熱というある衝撃―富への情熱という衝撃とともに。この情熱は単なる力に過ぎません、その内側に分離の原則、争いの原則を持つような。
 西洋の男性や女性の一人一人と親交を深めることについては、私はこれまでとても恵まれていて、彼らの悲哀を彼らと共に感じ、その志をともに分け合ってきました。私にはずっとわかっていました、私の神、全く同じその神を彼らが探し求めていることを―たとえ神を否定するような人達であっても、です。きっとそうでしょう、もしヨーロッパでその素晴らしい文化の灯が絶え入ってしまうものなら、東洋にある私たちの地平線が暗闇を着て嘆くことでしょう。こう公に認めることで私の誇りが痛むことはありません―この現在の時代に、西洋の人類が世界の教師となるべき使命を受け取ったのだと、その科学が、自然の法則の支配を通じて、物質という暗い迷宮から人間の魂を解放するためにあるのだと。まさにこの理由のために、私はこと更に強く―もう一方では―こう理解するようになったのです、西洋諸国で主流のその総体的な考えは創造性のものではない、と。それは個々の人を今にも虜にしたり殺そうとしているのです、すばらしい人たちを魂殺しの毒で中毒にするために―彼らの未来全体を麻酔の黒い霧で暗くし、そうして人間の民族という民族をどうにも救いようがないほどに骨抜きにする、その毒で。 それは一丸となって、精神的な力の中で混ざり合い一致したがっていて―人間の素晴らしい個人性の感受に欠けているのです。
 現代の最も重大な事実、西洋と東洋が出会った、ということはこういうことです。かなめとなるような人類の出会いの場合、実り多くある要件として、その真ん中には相当に素晴らしい感動的な着想があってしかるべきです、寛容でそして創造性があるような。神の選択が現行の時代への貢献のために西洋の騎士たちの冒険遍歴に下されたに違いないということはあるでしょう、 武器と甲冑がずっと彼らに授けられてきたのです、だがそうとはいえ彼らはその心の内で自己の動機に対する一心な誠実さ―悪魔の贈るあらゆる賄賂を拒否できるような―をいまでも自覚しつづけているでしょうか。今日の世界は西洋に差し出されています。西洋はそれを破壊するでしょう、もしそれを人間の素晴らしい創造の機会のために使わないのなら。そうした創造のための素材の数々が科学の諸手の中にあります、ですがそうした創造の天与の才は人間の精神性の理想の中にあるのです。

(私訳)

原文は Creative Unity  その著者は Rabindranath Tagoreさん