女性と家庭~読み手のカータ/テシー・続~

(よみかえしたら本文内容に対する感想がほとんど表明されていなかったので精一杯までにはまだ空きがありそうで追加。)

 私訳をかきおえたときに、思わず「すごいなあ…」と呟いていました。それは特に最後から2番目の段落で展開される家庭の意義の再確認で、家庭の本来はつまり、血族や氏族によるその団結と他から抜きん出た繁栄がテーマの集まりじゃないという点を、くっきりしかし透かし彫りにしているようなところが、それこそ転調の契機と思えたためでー私はワタシで文中の”home"に個人の家庭を超える広がりが、無いと困るなあと思っていたので、決してあまのじゃくを演じるつもりではなく、なんとかこの原文の"home"も一語で最後まで通せないか、と「家庭」とか「家」以外でかつそれらをひとくるみにできる表現を求めてうろうろウンウンしたんだけれど、私訳では充てなかった自分専用の語は「戻れるところ」でした。
 内容を知らないではじめた一行目の日以来、ワタシはずっとかつてないほどにどこかビクビクしながら読み進んで来ました、タイトルから受けとった印象で、今日こそは「家族は大事、その守りてとして女性のあるいは母性の存在が大事」という話になってるのでは、と。でも、"woman"にしろ"home"にしろ、原文はおもわぬ別の地点にも意味を見いだしていて、ワタシの悲観的予想は覆されてほっとしました。
 個人の領域であるからこそ、家庭の様はサマザマデいいはずだし、「主従関係が当然なのではないでしょう」という、スタンダード(という思い込み)へのよびかけに、気負いはなくて、でもこもる気持ちのあることをー最近忘れていたその事をー思い出しました。どうやらつまりそんなふうにpenetrateしたようで、では自分ほどうする?と、心は決まっているのに考えは逃げ道を捜しています。

読み手のカータ/テシーとは:読みての感想をその時点での精一杯のところで書き手にたいして表明すること。そう読んだ責任は読み手に持たせてもらうこと。そう表明したことに追加があればいつでもできる自由があること。