東と西 Ⅲ ~これもまたVariety~

III

 私の若い頃、一人のヨーロプ(Europe)からの不案内な人がバンラー(Bengal)へやって来ました。彼は現地の人たちの中に投宿することを選び、その人たちの質素な食生活を彼らとともにし、そうして自分の奉仕は彼らに無償で提供しました。富裕な人たちの家々で雇い口―その人たちにフランス語とドイツ語を教えるという―を見つけ、そうやって稼いだそのお金を彼は貧しい生徒たちが本を買う扶けに費やしました。彼にとってこうしたことは熱帯の夏日にその真昼の熱暑の中を数時間も歩くことを意味していました―というのは、最大限の倹約を実行しようと思い定め、彼は頑なに送迎を雇わなかったのです。自分自身から自分の資源を取り立てることに関しては彼は容赦がなく、お金も、時間、それから体力も、貧窮にまで至れと―そうしてこのことが全て、誰ともつかない人たちのため、その人たちのために彼が生まれたわけでもない、それでも彼が心から愛してやまない一群の人達のためだからのことでした。彼は派閥に属する者の信条を教えるという職業上の使命のようなものを抱えて私たちのところへ来たのではなく…彼はその生来の性質の中にああした高潔さの自給自足―それは贈り物によってその横柄な博愛の犠牲者に屈辱を与えるものですが―の微かなきざしすら一切持ちませんでした。私たちのことばは解らないくせに、彼は私たちの会合や儀式に機会あれば顏を出そうとし…それでも彼はいつも邪魔にならないようにと気を使い、また私たちの習慣を知らないせいで自分が私たちに逆らうことになってはいまいかとしおらしく心配気でした。ついには、異郷の気候や周囲の事物の中での仕事という緊張の連続に屈して彼の健康は崩壊しました。彼は死に、そうして彼の願いのことば通りに、私たちの焼き場で火葬にされたのです。
 彼のその心がけが、彼のその暮らし方が、彼のその人生の目的が、彼の謙遜さが、彼の―自分に宛てて授けられるいかなる慈善も公に伝えられる力すら持たない一群の人々への―惜しみない自己犠牲が、ブハーラト(India)でヨーロプ人達と付き合うために習慣になっていたあらゆることとあまりにも根底から違っていたので、そのことが私たちの心に畏敬に近い愛の感情を呼び起こしました。
 私たちはみな、王国を持っています、自分の楽園を、私たちの心の中に―そこには私たちの生命の経験へ何らかの神の光をもたらした人たちの、他者にはわからないかもしれない人たちの、そしてその名は歴史の頁の上には場所を持たない人たちの、死ぬことのない思い出が住んでいます。告白させていただきますが、この人は私の個人の生命の楽園の中にそうした不滅の存在の一人として生きています。
 彼はスヴェリエ(Sweden)から来て、その名はHammargrenでした。彼がバンラーで私たちのところへやってきたというこの出来事の中で最も特筆すべきことは、彼が既に自国で、私の偉大な同国人であるRam Mohan Roy の作品をいくつか読む機会に恵まれていて、そうしてその天才と個性に彼が並々ならぬ敬愛を感じていたという事実です。Ram Mohan Roy は前世紀(19世紀)初頭を生きた人で、また私が彼を現代の不滅の人物たちの一人と説明してもそれは全く誇張ではありません。この若いスヴェリエ人は洞察力のある知性と共感という常にはない天賦の才を持ち、そのために彼はRam Mohan Roy のすばらしさを認識することができたのです、それほどの時空の隔てがあっても、また民族の違いがあっても。あまりに深く感動したので、彼はこの偉大な人を生んだその国へ行き、その国へ奉仕しようと目標を立てたのです。彼は貧しく、そして自分のブハーラトへの渡航費を働いて稼ぎ出すまでにかなりの時間をイングランドで待つことを余儀なくされました。さあやっと彼が来たかと思えば、愛の無防備な寛容さのままに彼の生命の最後の一呼吸に至るまで自分自身を使い果たしました、家からも、親族、また彼の故国という受け継いだもののすべてからも遠く離れたところで。 彼が私たちの中にいてくれたこと、それはどんな表向きの結果を生み出すにも短すぎました。彼は自分が心にあたためていたことを自分の人生を通じて達成することすら逸したのです―それは彼のなけなしの報酬たちを用立てることでRam Mohan Roy への追悼として図書館を創設することであり、また彼の献身の目に見える象徴のようなものをそのようにして後世に遺すことでもあったのです。しかし、私がこのヨーロプの若者に―その人生の記録を後に一切遺さなかった彼に―最も尊さを感じるのは、そのどんな善意の奉仕の想い出でもなく、むしろ、苦境に落とされた、みて見ぬふりをするにも侮辱するにもこうも易い対象であったある一群の人たちへ彼が示した敬意というそのかけがえのない贈り物なのです。近代では初めてのこととして、このスヴェリエから来た目立たない人物が西洋の騎士道に則った礼儀を私たちの国へもたらしたのです、人間同士、という挨拶ひとつを。
 その偶然の一致がすばらしくまた悦びにみちた驚きを伴って私に思われたのは、スヴェリエから私に対してノーベル賞の打診があったときでした。個人の功績の表彰としては、それは私を高く評価するものでした、確かに―しかしそれは西洋の大陸群とのいち協働者としての東洋の公認だったのです、その豊かな資源を文明の共有財産の役に立てることにおいての―現行の時代にとってそれは何より重要なことでした。素晴らしい人類世界の二つの領域が海を越えて同志として手を携えようということだったのです。

(私訳)

原文は  Creative Unity  その著者は Rabindranath Tagoreさん