現代というもの Ⅰ ~私訳~

 生きている間柄で人が人に出会うところならどこででも、その出会いは自身の自然な表現が芸術の作品になっていることに気がつくものです、そのいくつもの美の署名に―その中にその人らしさが一緒くたになってその記念をあとに残してゆくことに。
 一方で、混じりけなしの功利の間柄は、人に屈辱をあたえます―それは人のより深い本然の権利と必要を無視します―それは元通りになどできない美しい事どもを酷使し殺すことに何の良心のとがめも感じないのです。
 幾年か前、コルカタから日本への船旅の途へついたとき、まず私を震撼させたこと―身体に傷を負ったような感じで―は、ガンジス河の両岸に対する黄麻の袋を作るための工場群の容赦ない侵殖でした。それが私に与えた打撃は私の少年の日々のかけがえのない記憶に由来していて―その日々、私の生まれた地の辺りでは、私たちの最奥の魂と直接通じ合う、そんな世界の存在を私に思い出させる唯一のすばらしいものが、この河の景色だったのです。
 コルカタはその顔にまたその所作に情動の深みが一切ないような新興の街です。その創生記というとこうもいわれかねず―そのはじまりにあったは『店舗神』の精、持てる拡声器を通してこう云った「事務所神よ、在るがよい!」―するとそこにコルカタが―と。水際立つような天与の幸を何ももたされぬまま送り出され、気高いとか物語にみちたといった出自の威厳も何もなく―歴史に刻むような偉大な交流も、勇敢な苦闘や雄壮な行動の年代記も、一切その身辺に集めたことがありません。そこに神聖な美の洗礼を授けた唯一のものがその河だったのです。思えば私は幸運だったのです、煙を吐き散らす鉄の竜がその両岸の生命の大部分を食いつくす前に生まれて―その川の水の中にまで降りている上陸用のはしごが河の波の寄せ退きに優しくなでられれば、私にはそれが村々の愛しみの腕が河にしがみついている様に見えていた―コルカタが、そのそっくり返った鼻と石の様に凝った眼差しで、養い親であるベンガルの僻地を絶縁まではしておらず、そうして体と魂を裕福な愛人―死んだ皮に綴じられた台帳の精―に明け渡してもいなかった―その頃に生を受けて。
 異なる時代の異なる理想の作る好対照の例としてなら、一つの街の形象となって、バナラシへの前回の訪問の記憶が私の心に訪れます。私にとても印象深かったのは、私がそこに居る間、ガンジス河の『母さんの呼び声』があったこと、その地の大気を『聞かれることのない旋律』で常に満たし、日がな一日刻々と土地の人を丸ごとその乳房へと誘っているのです。この河のためにブハーラトがある種の底しれぬ深い愛を感じとってきたという事実が私には誇らしい、その両岸に文明を養い育てる―いくつもの丘のその沈黙から数えきれないほどの孤独の声を連れてその流路を海へと導くこの河のために。この河の愛―人の中の最善である愛と一つになった愛―それが、ある畏敬の表現としてこの町を育て上げてきたのです。このことが示しているのです―私たちの中には創造に向かう感情があるということを、獲得のために要求をしないが、贈り物の中に、そして自らを差し出す自発的な寛大さの中には溢れる、そんな感情が。
 でも私たちの心はこの先ずっと苛まれてやまないでしょう、「黄麻の袋はいかがですか。」という問いのうろたえた精神によって。私はそれが不可欠なものだと認めているし、それらのために社会の一隅を喜んで認めましょう、もし、私の反対者が、いかに麻袋といえども限度を知るべきだと認めさえすれば、そうして人にとっての無用の時間の重要さに対しては生きる喜びと信仰のための空間で、また大規模な隠遁の本拠に対しては純粋な愛と相互の奉仕という交流で、感謝の気持ちを表すのならば。もしこの人間らしさに向かう譲歩が否定されたり切り詰められるようなら、そしてもし利益と生産とが野放しされ手に負えなくなるならば、それらは私たちの美への、真実への、正義への愛をたわむれに破壊するでしょう、そうして私たちの同胞存在への愛をも。長じては、黄麻の小作農民―終わりを知らない飢餓の瀬戸際で生きている人―が、互いに反目させられ、虚しさに絶望するほどまでに労働の対価を引き下げるよう仕向けられることになるのです、百の利益から百以上を稼いでは自分たちの豊かさという公然の悪行の内に耽溺するような者達によって。人は勇気があって親切だという事実、人は交際を好み思いやりがあって自分を差し出そうとするという事実には、彼ら農民の中にその完成をみるという素晴らしい一面があります―でも人が一介の黄麻袋の製造者である事実が、あまりにも馬鹿げて小さすぎるでしょう、人のより高い本然を、取るに足りない扱いにまで差し引く権利を当然のごとく要求するには。功利という断片状の在り方は、人事においてその従属的な職位のことを決して忘れてはならないというのに。合法な立場と権力を越えて社会の中で占有するということは許されてはならないし、生命の詩情を冒涜する裁量をもつことも、雄壮さの看板として自身の粗雑の程を吹聴し、理想の数々に対する私たちの繊細な応接を滅ぼすことも許される事ではありません。哀しいことは、私たちが自分の活動の真ん中で、何らかの誇らし気な名前によって、残酷な破壊の意趣や、残酷さではひけをとらない製造の、その優位を承認するときに、私たちが魂のすべての灯りを消してしまうこと、そうしてあの暗がりの中私たちの良心と恥入る気持ちが隠され、また私たちの無縛の自由への愛が殺されることです。
 私はこうほのめかしたいとは一瞬たりとも思いません、歴史のどこか特定の時期には人間は自分のより劣った情熱の混乱から自由であった、と。利己を旨とすることには政治と商業においては常にその取り分があったのです。それでも社会の中での力の均衡を保とうとする苦闘があり―また私たちの熱意は彼ら自身の階級と価値についての幻(まぼろし)を一切うけいれないことを肝に銘じていました。彼らは私たちの良心の本性(ほんせい)に目隠しする巧妙な装置は終に発明できなかったのです。というのもその当時は、私たちの知の力が浮足立ち良心の秤の強欲の側に持てる錘を載せることがなかったからです。
 しかし、過去数世紀の間に、ある破壊的な変化が、金銭の獲得を重要視することで私たちの考え方を圧倒してしまいました。先の時代に人々はそれを見下して扱い、軽蔑すらしたものを、いまや彼らはそれに対してひざまづくのです。もちろん、それは役立つに足る大きな場を社会の中に許されるべきで、そのことに疑問の余地はありません―しかし不朽の存在のために特別にとっておかれたような座をそれが占有するとき、それは一種の暴虐となるのです―私達を買収し、私たちの良心の誇りに混ぜ物をすることで、人道の理想に逆らう反逆者の運動の中社会の最良の力を勧誘することで、そうやって、眼を引く華やかさと盛大な見せびらかしの助けを借りて、その実体の些細さを偽装することで。このような事態は、過ぎ去るためにやってきたのです、なぜなら、科学の助けがあって、その利益の可能性が突如として極端なものになってしまったのだから。人類の世界全体が、その長きと幅の隅々までが、ある巨大な貪欲の惑星のその引力を感じ取り、無数の衛星でできた同心環と一緒になって、私たちの社会のなかに道義の軌道からの甚だしい逸脱をもたらしました。以前の時にはこの大地の知性と精神の力が、独立性の尊厳を高く掲げて支え、金融市場の潮汐の上で立ち上がれなくなるほど揺られることはありませんでした。ですが、病の、死に直面した最後の段階にいるかのように、金銭というこの死に至る影響が私たちの脳にとうとう入り込んでしまい、私たちの心臓を害してしまったのです。どこかの簒奪者のごとく、それは高い社会理想の数々の座を席巻し、卑しさをことごとく利用して、脅威と脅迫によって、その座の利権を握ろうとし、また渡りに船と、それを審査してやる気でいます。その同調者に科学だけならばまだしも、疑似宗教のごとき、民族信仰といったもの、そして組織だった利己主義の理想化という他の力も並んでいます。それがとる手法ははるかに及び確実なものです。虎の脚の爪のように、それらは柔らか気に鞘に納まっています。その大量殺人の数々は目には見えません、なぜならそれらは原理に及ぶから、生命の根そのものを攻撃しているからです。その略奪は科学らしい仕切り構造に隠れて無慈悲です―問われれば開示する、責任をもって応答する存在という公の姿をしてはいますが。その一つならぬ汚点を糊塗することによってそれは自らの矜持を無辜に保つのです。そのことが外交での虚偽の大盤振る舞いを生み、その交渉の別の当事者によって嘘の証拠が露見すれば面目をつぶされたと感じるだけです。不誠実な宣伝活動の体制が嘘の表示の拡散へ道をひらきます。それは群集心理を作り上げるのです、規定量の催眠薬を、時間を置いて繰り返し投与することで、それを道徳的と書いて貼った気持ちの晴れる色をした瓶に入れて渡すことで。実際に、人は今日、自分の威力の追求をより行いやすくなっています、自分の人間らしさのより高い領域からやってくる、その追求の邪魔になる力を和らげる自分の所為によって。人の、力への盲信また金銭という偶像の崇拝で、人は、ある大がかりな手段の中で、人の原初的な野蛮さに立ち戻ってしまったのです、身の毛もよだつような知の灯火で明るくした抜け道をもった野蛮さに。野蛮さとは上面(うわつら)の人生という単純さのことですから。その表面は装飾と複雑さで攪乱しているかもしれませんが、それには良心に適う責任という深みを人生に分け与えようとする理想がないのです。

(私訳)

原文は Creative Unity   その著者は Rabindranath Tagoreさん