東と西 Ⅰ~これもまたVariety~
Ⅰ
きょうび旅人を運び遠いところへ至らせるのが人の中の深遠な関心事とは限りません。むしろ素早い活動のための利便であることのほうが多いのです。時間のなさにそしてほかならぬ便利さのために、私たちは自分の人間らしい実際の数々を一般化しては押しつぶし、我らが旅人の報告を保管する鋼鉄のトランクの中に納まる小包みへと変えているのです。
私たちの同国人についての知識と彼らについての感情は、数々の矛盾に満ちまたひっきりなしの変更にさらされる数知れない事実から、ゆっくりと知らず知らずのうちに育ってきたものです。それらには捉え難い神秘と生命の流動性があります。私たちは自分たちに向けて自分たちが一つの全体としてなんであるかを定義することはできないのです、何故なら私たちが知りすぎているから―何故なら私たちの知識が知識以上のものだからです。それは個性の直接認識といったものであり、何らかの感情、喜びや悲しみ、恥じ入る気持ちや舞い上がるような気持ちをもたらすもののあらゆる価値の見定めです。しかしどこかの異郷では、私たちは自分の情報の貧弱さの補償を、自分の不完全な共感自体がその形成に一役買う一般化という簡便さによって見つけようとします。西洋からの不案内な人が東洋世界を旅するとき、その人は自分を不愉快にする事実の数々を取り上げては、ここぞとばかりにそれらを硬直した結論に利用するのです、自分の個人的な経験という口をはさむ余地もない権威に捕らわれて。それはまるで、自分の住む村の小川を渡るのには専用の小舟を持っているが、どこかの不案内な水路を歩いてこぎ渡る段になると、進むほどに泥だまりや小石など自分の脚に当たるいちいちから怒りの喩えを導き出す人のようです。
私たちの思考には普遍性であるという能力がありますが、その習慣はというと閉鎖的です。自分の習慣が不便を被ると些細このうえない不快にも短気になり怒りだす人達があるものです。自分の思いつく次の世界に、彼らは十中八九自分のスリッパと部屋着のガウンの面影をたちどころに準備し,そうして自分たちのこの世での投宿先の扉の錠前を開ける鍵が、その別世界での自分たちの玄関の扉に合うことを期待しているのです。旅をする者としての彼らは怠慢です― 彼らが自分の精神の安楽椅子に馴染みすぎて育ってしまったために、そして彼らの知的な性質のなかで、局地的に作られたものである我が家のくつろぎを、その人生の現実よりも愛するからです―まるで地球そのもののように起伏だらけでありながら、しかもその丸い収まりかたで一つであるという現実よりも。
近代は地球の地形を私たちの傍へと連れてきてくれたのですが、私たちにとっては人と知り合いになることが難しくなってしまいました。私たちはよく知らない土地へ出かけそして観察します―そこに住むのではありません。私たちはほとんど人々に出会わないのです―知識の標本に会うばかりで。私たちは大急ぎで一般的な模型を探し求め、個々の人を見逃しているのです。
自分の旅での共感からくる理解をいかすことを怠る習慣に陥る時、私たちの外国の人々についての知識は図々しさを増し、またそれゆえにその性質が不公平で酷薄に、そしてその使い方においても身勝手で見下したようになりやすいのです。このようなことが、あまりにもしばしば、該当してきたのです、私たちの時代の西洋の人たちが、同胞としての義務を一切感じていない他の人々と出会うという場合に。
異なる人間の種族間でのやりとりは単に個人の間にとどまらないということはすでに認められています―私たちの相互理解は、社会の雰囲気を形成するその全体としての発信によって養われもし、そうでなければ阻害されもする、と。こうした発信は私たちの共同の考え、また共同の感情であり、特有の歴史状況に基づいて生成されたものです。
例えば、カースト思考というものはインディアの共同の考え方の一例です。この共同思考の影響下にあるインディアの一人の人物に私たちが近づきになろうとするとき、その人はすでにいち人間存在の価値を判定するという行いを充分に認識する良心を備えた純粋なただの個人ではありません。その人はある共同体全体の感想に表現をもたらすための受動的な媒体といったところです。
カースト思考というものが創造にまつわるものではないことは明白です―それは制度にまつわるものに過ぎません。それは大層な機械じみた配列に従って生きている人の間を調整します。それは個であることの否定的な側面を強調します―人間の分離状態を。それが人の中の完成された真実を傷つけるのです。
西洋にも、また、その地の人々の人間らしさをぼやけたものにしてしまう確固とした共同思考があるのです。それについて私が感じることを説明してみたいと思います。
(私訳)
原文は Creative Unity その著者は Rabindranath Tagoreさん