『キングダム 大将軍の帰還』を見て
佐藤信介監督のインタビュー読むと、もう単なる感想という言葉が出てこない。
特に今回の『キングダム大将軍の帰還』はキングダム4部作の中でも主題とも思える物語、感想をなかなか書くことができなかった。ただただ無力に王騎様にひれ伏すのみなのだ。
(※以下、ネタバレ含みます。未見の方はお気をつけてくださいね。)
そして、多かれ少なかれ作品を見た方たちの多くが、きっとおそろしい衝撃を受けてどうしようもない感情の動揺に狼狽えているのだろうと強く感じ、あまたの彼らを前にかける言葉が浮かばないのと同様なのだ。
王騎を作るにあたって制作者側とのすり合わせ、あるいはもっと深めたり、アプローチの角度を変えたりと、肉体改造だけでなく、その個性や表現方法もとても難しかったことだろう。
どなたかもおっしゃっていたが、人外に限りなく近い王騎は、実写にするにあたって実に難しいキャラクターだ。アプローチによっては滑稽や戯画的になりかねず、その匙加減は記事にもあるように困難を極めたことだろう。しかも彼は強く、そして恐ろしくかっこいい。
チャーミングでコミカルな側面もあり、愛に深く情に厚く、時に残酷でしかも冷静、秦国六大将軍の一人、中でも最強の将軍であり、唯一の生き残り、だが同時に、人間としての美しい弱さを持っている。
弱さ、無論決して王騎は弱くはない。宿敵龐煖を前にすると、ヒトの心を捨てた龐煖に対し、ヒトの心を持つ王騎は強さのベクトルが異なるのだ。
過去の因縁を捨てず、心から愛したその人の存在と共に生きてきた王騎は、逆にそれが王騎の強さでもあったのかもしれないし、あるいはきっと、彼もそれが致命傷になると分かっていながらもそれを捨てずに戦うことを選択したのだろう。
将軍としての立場を思うと、敵の将軍との一騎打ちはどちらか命を落とすことは覚悟の上だろう。
昌文君の過去の回想シーンで、自分(王騎)が総大将となったからには命を落とすこともありうるから、今のうちに伝えておくべきことがあると、王騎はある真実を昌文君に伝えるのだ。総大将となれば命を落としうることも当然だと彼はしっかりと意識している。
『遥かなる大地へ』で、麃公将軍と魏国の魏火龍七師のひとり呉慶将軍との一騎打ちで、呉慶が命を落としたように。
呉慶のあの襟巻きは原作では死んでいった同胞達の髪を束ねたものだということをどこかで読んだ。その死んでいった彼らの恨みを果たすため、小国の王族の身から魏国の大将軍まで上り詰めたのだという。
呉慶と麃公将軍の一騎打ちを見ると、仇討ちの情に支配された者は敗れるという構図をここで大きく見ることになる。
王騎の龐煖への決して忘れることのなかった怒りは、麃公将軍のいうところの“戦場にどこにでも転がっている”恨みに他ならない。
王騎の捨てきれぬ想いは、呉慶のあの襟巻きであり、麃公将軍の前に倒れた呉慶を、王騎は丘の上から見つめているのだ。
その後、あの平原に沈む夕日を見つめる馬上の王騎と麃公将軍のシーンに繋がるのだが、麃公が倒れることもありうる一騎打ちで、麃公は勝ち、王騎は何事もなかったように、そして当たり前のように麃公をねぎらい、笑う。将軍の“生”とは、複雑な感情や想いを超えて、軍を束ねる将として、死(とその覚悟も)もまたきっと当たり前のことのように生の中に内包されているのだ。
王騎の回想の中で、王騎は、9年前に龐煖の刃に倒れた摎は総大将であり、王騎が副将の連合軍であることを思い出している。つまり、摎もまた総大将として、敵将との一騎打ちという状況になり、“命を落とすこともありうる”総大将としての立場と役目を真っ当に貫いたのだ。
本来ならばそこで王騎は、麃公将軍と呉慶の一騎打ちを見るように冷静でいなければならなかった。だがそこに、王騎の王騎らしい、自らの愛を貫く、人としての深い情に彼は支配されるのだ。あるいは副将として、倒れた総大将に代わり、敵将龐煖の命を取りに行ったのかもしれない。
しかし、もし冷静に敵将龐煖の命を取ったならば、心臓が止まっていても、身体中を矢の嵐で貫いても、龐煖の首級を取るべきだった。滅多刺しにし、死体を跡形もなく切り刻むべきだった。だが、彼はこともあろうか、首級も取らなければ滅多刺しにもせず、龐煖の矛もそのままに、馬陽の戦場をあとにする。映画では一切その後の事情は描かれてないが、摎の亡骸と共に、悲しみにくれ、あるいは悲しみさえも捨て、感情的にあるいは無感情に、その場を後にしたのだろう。その後、王騎は秦国の将軍としての地位を降り、長い間、戦場の最前線から離れるのだ。
キングダムでは、山の民の恨み、信の漂を殺された恨み、羌瘣の羌象を殺された恨みを、一貫して、仇討ちのみに囚われることなく、死者の想いと共に生き、死者の夢と共に生きろと説く。
一方で、恨みや怒りを捨てきれずに命を落とす王騎を丁寧に描いている。人たるものはそう単純にいかないのだということをたたみかけている。
そして、“漂を殺した敵をぶっ殺す”ことだけが目的で城戸村を飛び出した信が、それを捨てた時に始めて(漂の仇を討つのではなく、死んでいった漂の夢や想いと共に生きていく選択、それはすなわちえい政の中華統一の夢にも重なるのだが)、強敵の左慈に勝つことができた。
羌瘣もそうだ。彼女の仇討ちのみに生きる悲しい目を、信は全否定している。そして羌瘣もまた、皆で笑い合える“生”を、羌象のなし得なかった夢と共に生きることを選択し、信たちのもとに帰ってきた。
では王騎はどうか…。
王騎は将軍として配下の蒙武や干央達を助けるために趙軍のただ中を突破し、敵の総大将の龐煖の目の前に迫るが、目的はそれだけではなく、彼の心を支配していたのは、決して忘れはしないと彼が言っていたように、摎の仇を討つためだ。
これは信や羌瘣の、死んでいった者達の夢と共に生きることと矛盾する。
そこが人間たる王騎の最大の魅力なのだ。理屈では通らない、将軍としての立場の前に魂の底の情念や信念に王騎は突き動かされ、命がけの戦いに血を沸かせ、戦場に嬉々として臨み、怒り、悲しみ、あの巨大な矛で敵を殲滅させるのだ。
龐煖の前に命を落とした摎の夢はなんだったのか。あとひとつ、馬陽の城を取れば王騎の妻になる、それはきっと王騎の夢でもあったのだ。
亡くなった者の夢は永遠に叶えることができない。絶望の中から、何年もかけて王騎は立ち上がり、きっとこの時を待ち望んでいたのかもしれない。
総大将同士の一騎打ちの内側には、愛する者を殺された悲しみと怒りのマグマが渦巻いている。その渦を龐煖は無意識にあるいは意識的に引き出し、秦国総大将として何10万もの兵士を束ねる将軍から、愛する者を失い、怒りと悲しみを爆発させる一介の男としての王騎の(心の)鎧を一枚剥ぐのだ。その剥がれた王騎の鎧のほころびを、龐煖の鋭い矛が貫く。これが龐煖の戦略だったとしたら、武神とは、ヒトの心の内面も容赦なく利用し、その揺れ動く感情を餌食にし、勝利を得ることをいとわない者なのかもしれない。
王騎の矛の連続攻撃にひるみ、馬上から半身が落ちかけた龐煖に向かって、「幕です!」と王騎が矛を振り上げその開いた空間に(脇腹に矢が刺さりほんの一瞬隙が生まれた瞬間を逃さず)、後方の王騎に向かって矛の刃を一気に突いた龐煖の無慈悲さに、観る者の魂もまたグサリと貫かれ、息を止め、観客はただただスクリーンをまばたきもできず見据えるしかない。
この劇的な流れ、矢を止められなかった信の激情と共に、王騎将軍に観客は皆、魂を奪われる。
龐煖には負けたが、趙国軍を撤退させ馬陽を守ったことは勝利だ。将軍として、命に替えて仲間を守り国を守り、死してなお、皆の心に永遠に生き、その存在が輝くのだ。えい政が秦国王都の咸陽の正門を開け、信たちと共に帰ってきた王騎将軍の栄光を讃えるように。
このあと、王騎の馬に信が共に乗り、将軍の見る景色を王騎と共に見るという劇的なシーンが更に続く。ここから木漏れ日のとても美しい林の中での王騎の死に至るまでの感想も山のようにあるが、長くなるので別の機会に。
企画から4部作公開まで8年だそうだ。『キングダム1』の公開から5年。歳月と共に観客も信と共に王騎将軍の背を目指して駆け抜けた5年間だった。
個人的には大沢たかおさんの出演作『BALLAD名もなき恋のうた』を見てから15年。演じられた大倉井様は長刀だったが、再び大沢たかおさんの矛を持った本格的な戦闘シーンが見られて本当に大感激だった。今度こそ、勝利して欲しかった笑、というのも本音だが笑、敗北とはまた違う、本当の意味での勝利とは何か、見せつけられた思いだ。
15年前と同様、また魂を鷲掴みにされた。
さすが、秦の怪鳥である。
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