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『キングダム大将軍の帰還』を見て その2 〜王騎の矛〜

龐煖の倒し方をずっと考えてる🤔。
だいたい最初のあの夜のシーンで羌瘣がほとんど試してる。でもほぼ効かない🤔。信も試してる。でも効かない。龐煖は強い。さすが武神だ。
個人的には背後か足元、あの矛の下を潜って脇腹に一撃と思っていたが、あの最初のシーンでことごとく弾かれた。おそらくあの時代最強の武器である槍も歯が立たない。矛が縦横無尽に回転し、剣も槍もみな弾き返されてしまう。まったく隙がないのだ。背後からの攻撃も、足元からも、頭上からも、ひと太刀も加えられない!

※以下、物語の根幹に関わるネタバレあります。未見の方はお気をつけてくださいね。

画像出典『コミックナタリー』https://natalie.mu/comic/news/533891


王騎は実は互角か龐煖よりも強い。だけど弱点がある。先のnoteにいっぱい書いた。その弱点を突かれた。王騎は将軍だから部下も軍も全体を全部見なければならない。そしてやがてやってくる第三の部隊、李牧軍の存在も王騎は知っていた、だからきっと焦りもあった。予想よりも随分早く着いたと彼も言っている。

それまでに龐煖との決着をなんとか着けたかったのだろう。着けなければ絶対不利になることを彼は経験上ものすごく理解していたのだ。ここまでの駆け引きというか、流れがぞくぞくするほど面白かった!さりげなく、趙軍の副将の趙荘も(李牧軍が来ることを)王騎は知っているのか?と言わしめていた。

とにかく王騎には沢山の足枷があった。足枷をつけて戦いつつも、龐煖と互角かそれ以上なのだ!
やはり王騎は圧倒的に強い。足枷を取ったら絶対王騎が勝つだろうと思うけれど、物語はそれを許さない。

龐煖も“これがお前の土俵なのだ”と言っている。
龐煖も9年前に王騎に負けてから、ずっとずっと王騎に勝つにはどうしたら良いか考え抜いていたのだろう。

ソニーストア 銀座 『キングダム 大将軍の帰還』公開記念展より


龐煖は戦いを感情と完全に切り離して、いや、感情の存在を一切無にして戦う。武の強さを導き出すため、ひたすら修行を続けて辿り着いた境地なのだろう。
なので龐煖には王騎の強さが理解できない。
感情を捨てれば、過去のしがらみを捨てれば、戦場でなければお前ももっと強いはず、何故それを捨てないのか…どうして戦場にこだわるのかと。龐煖にとって、純粋なる戦闘とはかけ離れた(実際、龐煖の言葉で言う“水を刺され”、王騎は倒れることとなった)“戦場”に王騎が生きている事にきっと納得がいかないのだろう。それが“これがお前の選んだ土俵”という言葉に深く込められているのではないかと、映画を見てからずっと考え続けている。
個人的にはそれこそが、王騎の強さの源流であると思うのだが(李牧もラスト近く、龐煖に向かって王騎の強さは戦場にあると思うと実にサラリと言っている)。部下を思い、愛する者を思い、若者の成長を思い、戦いを楽しみ、そして哀しみ、天下の大将軍としての誇りと栄誉を誰よりも感じながら生きてきた王騎…。

おそらく龐煖は王騎以外には負けたことがなかったはずだ。いったい王騎の“何に”負けたのか、自分にとって何が足りず、王騎は何を持っていて、自分に勝ったのか…、ひたすら考え、9年間山に籠り修行をしてきたのだ。

その上で龐煖は今度の戦いの舞台として、戦場を選んだ。趙軍の総大将となって、王騎を戦場へ引きずり出した。

そして李牧も同じように考えたのだろう。
もしかしたら龐煖を趙軍の総大将にすることは李牧の発案なのかもしれない(原作にどう描かれているのか私は知らないのです。ごめんなさい)。

あとあとこの先、一番の脅威となるやも知れぬ、しかしずっと戦場の最前線から退いていた、秦国六大将軍の生き残りにして最強の武将の王騎を、戦場に引き出すにはこの手しかないと考えたのかも知れない。

李牧も、秦に勝つには、まず有能な敵武将を1人づつ片付けて行かねばならないと思っていたに違いない。前作『運命の炎』で王騎が、“あとあと厄介になるから今のうちに片付けておきたい敵将”馮忌を、“飛矢”の飛信隊を使って討ち取ったように。
今回の戦いは、王騎を討つための戦いであったと李牧は最後言い切っている。そして王騎を討つための飛矢が李牧軍であり、囮が龐煖軍なのだ。

恐るべき趙軍の天才軍師李牧。彼のことも書き出したらキリがなくなりそうなので、李牧とカイネの話はまた次回に😊。

そんなことを感じながら、主人公の信を見てみると、彼は目の前の状況にただただ真っ直ぐに向き合い、真っ直ぐに対峙し、真っ直ぐに何かを感じ、そして乗り越えてゆく。

乗り越えた、のかどうか…は、まだ答えを私たちは見ていない。もちろん、王騎の魂と共に胸を張って咸陽に帰還したのは感動のラストシーンとして私たちは周知しているが、王騎の死を彼はどうやって克服したのか、どうやって魂に落とし込んだのか、続編があれば詳しくもっと知りたいところなのだ。
復讐なのか、王騎の矛を傍に、天下の大将軍を目指し、えい政や仲間と共に秦国を守ることなのか…、そのどちらもなのか。

どなたかも書いていたが、つまりこの4部作を見て誰もが思うことなのだが、信は第1作目から第4作までことごとく何かを失いまくっている。
最大の友人で同じ夢を追い続けた漂を。
戦場での戦いとはなんであるか身をもって教えてくれた上司、縛虎申千人将を。
そして今回、城戸村からの幼馴染みで初陣を共にし誰よりも気心を知っている尾兄弟の弟尾到を。
最後には、子どもの頃からずっと憧れていた天下の大将軍、王騎将軍を。

尾到を亡くした時、彼は下を向かず前を向く。普通ならば悲しみで打ちひしがれるところを歯を食いしばって前を向き、あの言葉を放ったのだろう。死んでいった者たちはそんなこと望んでないんだと彼は言い、その言葉を聞いた王騎将軍は、せっかく慰めようと思ったのに(とはいうが、表情は慰めが必要ないことが嬉しそうだ)その姿勢は良い、飛信隊と名付けた甲斐があったと言い、彼を間接的に褒めるのだ。武将の道は犠牲の道だと王騎は言う。きっとそれは王騎が辿ってきた道そのものなのだろう。

そしてその道をただひとり力強く歩み続けてきた王騎が、将軍とは何か、大将軍とは何か、まるで問いかけるように馬上で将軍の見る景色を信に見せる。決してその答えを彼は話していない。
戦場を、仲間の顔を、敵の顔を、天と地をしっかりと見据えよと馬上で説く。感動の名シーンだ。何度もスクリーンを前に涙を流した。
大将軍の魂は咸陽に帰還するが、矛は信に託される。
あとは、任せた…と。

これ以上は考察ではなく個人的な希望の創作になってしまいそうなので(笑)多くは語らないが、あの戦場を王騎の馬に乗り駆け抜けるシーンはスクリーン全体が光り輝き、見る者にとっても一生忘れられない風景となる。
ドルビーシネマやIMAXの臨場感と没入感抜群の巨大スクリーンを前にすると、その戦場の風景が目の前に広がり、まるで映画の中に入り込んだような錯覚に陥る。この一体感、信と共に、戦場の天と地を、しっかりと目に焼きつけることができるのだった。

続編があれば、更に一回りも二回りも強く大きくなった頼もしい信の姿を見る事になるだろう。
まだまだ、信と共に、そして王騎将軍と共に、血が湧き立つ遥かなる旅を続けたい。
心にあの矛を担ぎながら…。

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