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マリア・テレジア 母と女帝の顔を持つ女性
歴史を彩る偉人たちは数多くいるけれど、マリア・テレジアほど「お母さん」らしさと「帝王」らしさを両立させた人は他にいないんじゃないか。彼女は18世紀、ヨーロッパの舞台で文字通り八面六臂の活躍を見せた。その人生は、言ってしまえば壮大なドラマだ。愛と権力、戦争と改革、そして16人もの子どもたちを抱えながら、彼女は見事にその物語の主人公であり続けた。
即位の瞬間 鉄の女、始動
1740年、父カール6世の死を受けて、ハプスブルク家の家督を相続したマリア・テレジア。言葉にすると簡単だが、当時のヨーロッパの政治は「女が権力を握る? 冗談じゃない!」という時代だった。彼女が即位した瞬間から、隣国の君主たちは「弱そうな女が統治する国なら、さっそく奪っちゃおう」とばかりに襲いかかった。
オーストリア継承戦争が勃発するや否や、彼女はハンガリー貴族の協力を取り付けるため、巧みな演説で涙ながらに訴えたという。その姿を想像してほしい。王冠をかぶった若き母が、赤子を抱えながら敵の矢面に立つ様子を。結果、ハンガリーの貴族たちはこう宣言した。「我々はこの女王のためなら命を捧げよう!」と。敵に囲まれた絶望的な状況で、彼女は「戦う母」として一歩も引かなかったのだ。
改革女帝、登場
戦争が落ち着くと、彼女はオーストリアの近代化に目を向けた。教育制度を改革し、義務教育を導入したのも彼女だ。貴族だけが学ぶ時代に終止符を打ち、「すべての子どもに学ぶ権利を」と声高に叫んだ。これは、今日のヨーロッパが誇る教育制度の礎となった。
しかし、教育改革だけではない。税制、行政、軍事、どれを取っても彼女の改革は大胆だった。多民族国家であるオーストリア帝国を効率的に統治するため、中央集権化を進める一方で、現地の文化や習慣も尊重した。彼女は「帝王」というより、むしろ国全体を包み込む大きな母のような存在だったのかもしれない。
家族 愛と戦略の交差点
さて、マリア・テレジアを語るうえで外せないのが家族だ。16人の子どもたちのうち、フランス王妃となったマリー・アントワネットはその代表例。彼女にとって子どもたちは、愛情の対象であると同時に、外交戦略の「駒」でもあった。子どもたちの結婚を通じて、彼女はヨーロッパの政治地図を塗り替えようとしたのだ。
しかし、この「家族戦略」は時に悲劇も招いた。マリー・アントワネットの運命がそうだ。ギロチン台に立たされた娘の姿を知ったら、彼女はどう思っただろう? 母としての愛と、国家の繁栄を願う冷徹な指導者の間で揺れ動く彼女の姿が目に浮かぶ。
統治とは愛である
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