
ルイ14世 「朕は国家なり」と言い放った男
太陽王、誕生 4歳で即位した少年王
1638年9月5日、フランス・サン=ジェルマン=アン=レー城。
嵐の夜、ひとりの赤ん坊が誕生した。
この子の名はルイ・ディユドネ──後に「太陽王」として歴史に名を刻むことになるルイ14世である。
だが、当時のフランス宮廷は、この誕生をただの「王子の誕生」として祝ったわけではなかった。
実のところ、この誕生自体が「奇跡」と呼ばれていたのだ。
ルイ14世の父、ルイ13世は気難しい性格の王だった。
さらに、母であるアンヌ・ドートリッシュとの関係も冷え切っており、結婚から23年間も子どもが生まれなかった。
「王家に跡継ぎがいない!」
フランス宮廷は焦り、貴族たちはざわついた。
そんな中、1638年、ついにアンヌ王妃が懐妊。
「本当に王の子か?」
そんな疑念の声も上がったが、生まれた男児は「神が与えたもの」として「ディユドネ(Dieudonné=神からの贈り物)」と名付けられた。
「奇跡の王子」として誕生したルイ14世。
しかし、彼の人生が穏やかであることは決してなかった。
1643年、ルイ13世が病に倒れる。
当時のフランスは、30年戦争の最中であり、内外ともに不安定だった。
国王の容態が悪化する中、宮廷は「次の王」をどうするかで揺れていた。
そしてついに、ルイ13世が崩御。
ルイ14世、4歳でフランス国王となる。
だが、この「即位」は、まだ単なる「名ばかりの王」にすぎなかった。
4歳の王が政治を執る?
そんなことができるわけがない。
そこで、実際の政治は、母アンヌ・ドートリッシュと、彼女の腹心であるジュール・マザラン枢機卿が担うことになった。
ルイ14世は、宮廷の中で「王」として扱われながらも、実際には母とマザランに全ての決定を委ねることになる。
「ルイ王よ、これはどうなさいますか?」
「うーん……マザランに聞いて」
そんな具合だったのだ。
だが、王でありながら何も決められない立場は、幼いルイにとって屈辱でもあった。
「私は王なのに、なぜ誰も私の言うことを聞かないのだ……?」
この「実権を持たない王」としての経験は、後のルイ14世に強烈な影響を与えることになる。
彼は幼心に誓った。
「いつかすべてを自分の手で支配してみせる。」
王となったとはいえ、フランスの情勢は混乱の極みだった。
30年戦争が続く中、国内では貴族たちの権力争いが激化。
さらに、1648年にはついに「フロンドの乱」が勃発する。
貴族たちは、「マザラン枢機卿の独裁政治を許すな!」と声を上げ、反乱を開始。
王宮にまで攻め込んでくる事態となった。
「ルイ王を守れ!」
宮廷は大混乱に陥り、ルイ14世は夜中に暗闇の中を馬車で逃げることになる。
この時、幼いルイは、「王」というものがどれほど脆いものかを痛感した。
王であるはずの自分が、なぜ逃げ回らねばならないのか?
「このままではダメだ。王は、もっと強くなければならない。」
彼の中で、「絶対的な王権」への渇望が生まれた瞬間だった。
4歳で即位した少年王は、長い間「操り人形」のような存在だった。
母とマザランの陰で、ただ「王」という肩書きを持ち、何も決められない存在だった。
だが、フロンドの乱の経験を通じて、ルイは確信する。
「王たる者、絶対的でなければならない。」
王が強くなければ、国家は崩れる。
誰かに頼る王では、真の支配者にはなれない。
私こそが、フランスそのものなのだ。
こうして、幼い王の中に、絶対王政の「種」がまかれる。
そして、その種はやがて大きく育ち、フランス史上最大の権力を持つ王、「太陽王」ルイ14世が誕生することになる。
少年時代に「実権を持たない王」を経験したルイ14世。
この悔しさと挫折が、後に彼を史上最強の王へと成長させることになる。
次章では、彼がどのようにして「絶対王政」を確立し、貴族たちを支配する存在へと変貌していくのかを見ていこう。
宮廷の嵐 フロンドの乱と少年王の試練
「王たるもの、なぜ逃げねばならぬのか?」
夜の闇の中、幼きルイ14世は馬車の中でそう呟いた。
彼が見たのは、自らの宮殿を包囲する怒れる群衆、武装した貴族たち、そして炎に照らされるフランス王国の混乱だった。
まだ10歳にも満たないこの少年は、この時、未来の「太陽王」としての誓いを立てていた。
「二度とこんな屈辱は味わわぬ。」
だが、この決意がフランスを「絶対王政」という新たな時代へと導くことを、この時の彼はまだ知らなかった。
1648年、フランスの政界は静かに、しかし確実に揺れ始めていた。
ルイ14世はすでに4歳で即位していたが、実権を握っていたのは母アンヌ・ドートリッシュと、彼女の右腕であるジュール・マザラン枢機卿だった。
マザランは、有能な政治家だったが、「外様のイタリア人がフランスを牛耳っている!」と、貴族たちや司法官たちから激しく反発されていた。
そこに追い打ちをかけたのが、戦費を補うために行われた新たな税制改革だった。
これに反発したパリ高等法院(司法機関)や貴族たちは、ついに武力を持って反乱を起こす。
「こんな独裁政治は許さぬ! 王の名のもとに戦うのだ!」
だが、実際には「王のため」ではなく、「自分たちの権力を取り戻すため」の戦いだった。
こうして、フロンドの乱が勃発する。
フロンドの乱は、当初は「宮廷vs司法官」の争いだったが、やがて貴族たちも加わり、内戦の様相を呈していく。
そして、ついにパリ市民までもが蜂起し、王宮へと押し寄せたのだ。
「王を捕えよ! マザランを引きずり出せ!」
混乱の最中、まだ幼いルイ14世は、母やマザランとともに夜陰に紛れて宮殿を脱出する。
王が、国民から逃げなければならない。
これは、ルイにとって屈辱的な経験だった。
彼は寒さに震えながら、逃げる途中でパリの路地に横たわる飢えた民衆の姿を目にする。
「これが、私の国なのか?」
貴族たちの陰謀、民衆の怒り、そして王の無力さ。
この全てが、彼の中で燃え上がる決意へと変わっていった。
「王権は絶対でなければならぬ。」
王宮を追われたルイ14世だったが、彼の母とマザランは決して屈しなかった。
マザランは政治的手腕を駆使し、反乱貴族たちを巧みに分断。
1649年、王党派はパリを奪還し、一時的に王政は安定したかに見えた。
だが、事態はこれでは終わらない。
1650年、貴族たちが再び蜂起。
今度はコンデ公ルイ2世という、名高い軍人までもが王に反旗を翻したのだ。
「このままでは、王の地位が揺らぐ……。」
マザランとアンヌ・ドートリッシュは、少年王を「実戦の場」に立たせる決断をする。
王は、戦場に赴いた。
まだ15歳だったが、彼は軍の指揮をとり、王の威厳を示さなければならなかった。
「戦う王の姿を見せよ」
この経験が、ルイに「軍事と政治の両方を支配する王」の意識を芽生えさせた。
フロンドの乱は、1653年についに終結する。
司法官たちは王権に屈し、パリは再び王の手に戻った。
反乱貴族たちは粛清され、フランス宮廷はルイ14世のものとなる。
そして、マザラン枢機卿が最後の権力を振るい、国政を安定させた。
この時、ルイ14世はすでに15歳を超え、大人になりつつあった。
だが、彼は悟っていた。
「王は、誰かに頼っていてはならぬ。」
貴族たちは、機を見て王を裏切る。
民衆は、不満があれば反乱を起こす。
そして、宰相たちは結局、自らの権力を追求する。
ルイ14世は、ここでひとつの決断をする。
「王の統治は、王自らが行わなければならない。」
これが、後の絶対王政の誕生へとつながるのだった。
フロンドの乱は、フランス王国にとっての「貴族の最後のあがき」だった。
だが、この乱を通じて、ルイ14世は自らの信念を確立した。
王は、絶対の権力を持たねばならぬ。
王宮の外に権力を持つ者を許してはならぬ。
貴族たちは、宮廷の華やかさに酔わせ、王の手のひらで踊らせるべきである。
この戦いの中で、「逃げるだけの少年王」は、フランス史上最も強大な王へと生まれ変わった。
彼の中にはすでに、「太陽王」としての哲学が宿っていたのだ。
ルイ14世は、ここから何を行ったのか?
貴族をどう支配し、王権をどう強化したのか?
彼がどのようにして「絶対王政」を実現し、フランスの歴史を変える王となったのかを見ていく。
「王とは、王自らが動かすものなり。」
少年王は、ここから真の支配者へと進化していくのだった。
「朕は国家なり」 絶対王政の確立
「私はもはや子供ではない。これからは私がフランスを治める。」
1661年、23歳の若きルイ14世は、王宮で冷静にそう告げた。
この一言を聞いた大臣たちは、一瞬、沈黙した。
なぜなら、彼が今口にしたのは、これまでフランスで一度も見られなかった統治の形──「王による王のための統治」の宣言だったからだ。
「王国には宰相が必要です!」
誰かが口を開いた。しかし、彼は微笑みながら答える。
「いや、もはや宰相は不要だ。これからは、すべて私が決める。」
この瞬間から、フランスは「絶対王政」という新たな時代に突入した。
1661年、ルイ14世の政治の師であり、フランスの実質的な支配者であったジュール・マザラン枢機卿が死去する。
通常なら、王は新たな宰相を任命し、政治を託すところだった。
だが、ルイ14世は違った。
「これからは、すべて私が決める。」
彼はこの日から、すべての政策を自らの意思で決定することを宣言。
宰相職は廃止
重要な政策は王が直接決定
すべての行政は王に忠誠を誓う官僚たちを通じて執行
こうして、フランスの統治システムは一変する。
もはや、「王の上に立つ者は存在しない」。
これこそが、ルイ14世の掲げる「絶対王政」の本質だった。
「L'État, c'est moi.(朕は国家なり)」
この言葉こそが、ルイ14世の統治哲学を象徴するものとして有名だ。
しかし、彼は単に「王が全権を握る」と言っただけではない。
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