何かにつけて人を馬鹿にするコミュニケーションの仕方は考えもの
風邪をひいた。
私は馬鹿じゃない。
ある時期、私は私のことを「馬鹿だ馬鹿だ」と言ってくる人のことが好きだった。
その人は何かにつけて私を馬鹿にした。
そんな彼に対して、私はいつも笑顔を返した。
彼に馬鹿にされるのが嬉しかった。
彼に馬鹿にされることで、私は確かに喜びに似た感情を覚えた。
自分よりしっかりした存在に守られているように感じて安心した。
今振り返ると彼に馬鹿にされること自体が嬉しかったというより、私が馬鹿にされることで二人の間に生まれる笑い、コミュニケーションが嬉しかったのかもしれない。
本当は馬鹿にされないやり方でコミュニケーションをとれたら、それが一番なのだろうけど、当時の私とその人に、その力量はなかったのだと思う。
思えば私は小学生の頃から、どこで得たのか「女の子は馬鹿なくらいが男の子にとって、かわいいのだろう」というようなことを規範にしていたような気がする。
実際には、お勉強が出来なかったわけじゃない。(小学生の頃は特に)
お勉強ができるか、できないか、という観点じゃない、馬鹿…。どこか抜けてるとかそう言ったような…馬鹿…?
長女として生まれたので、お姉ちゃんだから家庭ではしっかりしなきゃ!という反動が、学校生活や外の世界で放出されたのかもしれない。
どこか大人びた、しっかりしたところのある男の子に憧れを抱いていた。幼少期は特にお兄ちゃんの存在にも憧れていた。
そしてそれが馬鹿にしてくる人のことを好きになることに繋がった(のかもしれない)。
私は自分がしっかりしているのか、していないのか、わからない。
実際、何でもかんでもできる、こなせる、スーパー完璧人間はこの世に存在しない。誰もが一般常識から離れた何かを持っている可能性があるし、誰にも抜けている部分は存在する。(おそらく)(程度や度合いは人それぞれかもしれないけれど…)
私は、私自身の抜けている部分や一般常識から離れている部分に気づいて、言葉にしたり笑いにしたり世話を焼いたりしてくれる人のことが大好きだ。可愛がられていると感じて、自分の抜けてる部分が美味しいなと思うし、そんな人たちのことを有り難いとも思う。
自分が狙ったにせよ、狙わなかったにせよ、何にせよ、自分のことで誰かが笑ってくれたり、自分のことを気にかけてくれたりするのは嬉しいし、幸せを感じることだ。
それでも今、確かに私の経験から言えるのは、馬鹿にされることで得た喜びや人間関係はあるけれど、それはとっても希薄なものであること。(特に恋愛関係において)
そして、「自分は馬鹿な女の子だ」を自分自身で内面化することで狭めてきた可能性があるのではないかということ。
教え子の小学生に、「私は馬鹿だから」と明るくおどけて話す女の子がいる。
見ていてあの頃の自分が重なる。
「馬鹿だから」という言葉は、その人の可能性を狭める。
実際には、誰もがみんな馬鹿であったり、馬鹿なところがあったり、みんながしっかりしていて賢かったり、そんなところがあったりするんじゃないかなぁと思う。
だから、人は一人では生きていけないと言われているのだろうし、補いあったり支えあったりして生活するのだろう。
あの頃好きだった人が私のことを心底「馬鹿だ」と思っていたのか、定かではない。
あの人の言動の全てが私のことを蔑んでいて全く愛を感じなかったら、私は彼を好きになることもなかったかもしれないし。
でも言葉の裏を読み取ることは難しいから、私は私に心から気持ち良い言葉をかけてくれる人と一緒にいたい。
好きな気持ちや尊重する気持ち、大切に思う気持ち、仲良くなりたいと思う気持ちは、そのままストレートに言葉にできる人間でありたい。
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