桜色の着物とお道具箱
吹く風の温度が急に温くなったな、と思ったら家のそばの桜並木の色が変わってきた。まだまだ花をつける兆しすら見当たらないのだけれど、木の皮がほんのりと極々薄いピンク色を含んだように見える。よく気をつけて見ていないと分からないほど小さな変化ではあるものの、桜は確実に準備を始めている。
この春の風の匂いを嗅ぐと、いつも母の桜色の着物を思い出す。
母方の祖母が和裁の先生だったこともあってか、母は行事には必ず着物を着ていた。私は物心ついた時には日本舞踊を習わされていたので、母は着物というもの、もしくは和の世界がとても好きだったのかもしれない。
今でもごくたまに、夢を見る。子供の頃に戻った私は教室に居て、振り返ると着物を着た母が立っており、手を振ると母が笑って手を振り返してくれる夢だ。
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小学校の入学式の日も、母はお気に入りの桜色の着物を着ていた。式典が終わり各教室に分かれて教科書や道具箱が配られた。その新品の匂いにワクワクし、初めてのお道具箱なるものに興奮して、中身を開けてひとつひとつ手にとって確かめる。見たこともない、少しだけお姉さんになった気分になれる学習道具が詰まった宝箱を母にも見せたくて、後ろを振り返る。
スーツやワンピースのお母さんたちに混じって、ただ一人、着物を着て教室の後ろに立っている母はすぐに見つけれられる。すぐに発見できることも、安心で好きだった。
着物姿の母を、子供心に綺麗だなと思っていた。いつも家では家事のしやすい動きやすい服を好んで着ていたし、私は活発すぎてよく叱られていたので、どちらかといえば母のことを『怖い顔ばかりしている人』だと思っていた。そんな母が、着物を着た時だけはおしとやかで柔らかい雰囲気に変わるのを、子供ながらに感じていたのだと思う。
近所の幼馴染が、入学式の時に母を見て「綺麗だねぇ。うちのお母さんも着物着ればいいのになぁ。」と言ってくれたのを、今でもよく覚えている。それを聞いて、「もっとお母さんを色んな人に見せたいな」と思ったことも。
春になると思い出す。
母の桜色の着物と、お道具箱の新しい匂いを。