見出し画像

父の焼きそば、おにぎり、雑煮

先日、久しぶりに妹と会った。ふたりでダイニングキッチンで呑みながら、子供の頃の話をしていた。

あんなことあったね、こんなこともあったね、などと話しているうちに、いつしか懐かしのメニューの話題になった。

「いちばん思い出に残ってる我が家のメニューって、なに?」と妹に聞いてみた。

するとパッと目を輝かせながら「土曜日の昼の、パパが作ってくれた、アレ!」

そして、二人で同時に言う。「サッポロ一番のやきそば!!」。

それはとても懐かしくて、でももう食べることの出来ない、大事な思い出の料理なのだ。

父の焼きそば

まだ私も妹も小学生だった頃、長いこと母が病気で寝込んでいた時期があった。母はほとんど起き上がることができず、食事の支度もままならなかったので、いつも父が作ってくれていた。

平日は給食があるけれど、毎週土曜日は半日授業で給食がなく、家でお昼ご飯を食べなければいけない。私が子供の頃は、まだコンビニもない時代だったので、食事は家で作る以外にあまり選択肢がなかった。

土曜日も父は仕事だったが、歩いていける距離の所に会社があったので、お昼に一度家に戻って、ご飯を作ってくれる。

すぐに会社に戻らなければならないので、簡単にできる袋麺の焼きそばが土曜日のランチの定番だった。

具は、炒めたウィンナーだけ。

そして父の焼きそばは、いつも必ず「つゆだく」だった。麺が半分埋もれるほどの。

いま考えてみると、短い時間の中でチャチャッと作らなければならず、麺を別茹でしてから炒めるなどと面倒な事はできなかったんだろう。ウィンナーを炒めたフライパンに湯を入れて麺を突っ込む。麺がほぐれたらそこへソースを投入する、というシンプルかつワイルドな調理法により、つゆだくになったと思われる。

その頃の私と妹にとっては、焼きそばと言えば「つゆだく」だった。

縁日の焼きそばを初めて買ってもらった時には、妹と二人、「パサパサで食べられない」と残してしまった。

父のおにぎり

これは妹にとっての、とびきり大事な父の思い出らしい。

彼女が小学校2年生の、遠足のときのこと。

母がお弁当を作れないので、妹は前日に自分でスーパーに行き、お弁当用のパンを買ってきておいた。

翌朝起きてみると、テーブルの上にアルミホイルに包まれたおにぎりが2個のっている。そして父が「おにぎりしかないけど、作ったから持って行きなさい。」と言ってくれたのだそうだ。

父が大きな手で握ったので、小二の妹には食べきれないほどの、大きなおにぎりだったらしい。

「それでね、おにぎり2つとも、中身が鮭だったんだよ。」と言って、妹が笑った。

鮭と梅、とか、鮭と昆布、とかでもなく、鮭と鮭。

父らしくて笑ってしまう。

そのおにぎり、私も食べたかったな。

父の雑煮

父は仕事でとても忙しい人だったので、母が元気になって家事の心配がなくなってからは、あまり家にいなかった。仕事柄とにかく出張が多かったので、顔を合わせる時間がとても少なかった。

そんな父でも、正月の休みだけは毎年ちゃんと取れていたので、私も妹も正月を心待ちにしていた。

父は子煩悩な人で、休みの日はよく遊んでくれた。だから「父が家にいるお休みの日」は、私たちにとって「最高に楽しいお休みの日」だったのだ。

父はお正月になると、決まって作るものがあった。

それは父の郷里である広島の、白味噌と丸餅のお雑煮。毎年、1月2日の朝は父のお雑煮と決まっていた。

短冊に切った紅白の大根と人参が入っていて、丁寧に出汁をひいたつゆに白味噌を溶いて、焼いた丸餅が入っている。丸餅は父の田舎でついたものを、毎年年末に送ってもらっていた。

このお雑煮を食べないと、私はなんだかお正月が来たと思えないのだ。

しかし、結婚して自分で作るようになってからは、丸餅も広島の白味噌も手に入れるのが面倒で、関東風のお雑煮にしていた。

父が亡くなった翌年、ふと思い立って、父の雑煮を真似して作ってみた。

それなりに美味しくできた。だけど、なんだか違うのだ。父が食べさせてくれた味とはやっぱり違う。


料理は、いちばん作る人が表れるものなんだと思う。だから、真似ては作れても、父が作ってくれたそれではない。

ああ、またあの焼きそばとお雑煮が食べたい。

もう食べられないのだと思うと、無性に食べたくなるのだ。

いいなと思ったら応援しよう!

skyfish
頂いたサポートは社会になにか還元できる形で使わせていただきます。