歩いた、感じた、食べた、ぼーっとした-その1
熊野古道を歩かせていただいた。
そう。ここはわたしにとっては歩かせて「いただいた」感覚の場所だった。
自分にしてはたいそうな病気を経て以前と比べて感覚も体力も形状もだいぶ変わった。
以前できていたことが今は「ふーしんど」になったりする。
体だけではなくて気持ちもそうだ。次に向けるワクワク感が持続しなかったりする。
もちろん経年変化(笑)も影響している。加齢とか、老化とか、いわれている、あれだ。
熊野古道では初日に。花の窟をたずねた。
熊野でご案内いただくことになっている方と、花の窟でお会いする。
想像していたよりも快活でポップな印象さえ受ける女性だった。
そんな彼女は熊野と身体とこころが通じ、つながり、東京から移り住んできた、熊野を愛するナビゲーターでいらっしゃる。化身、ということばがにつかわしい、と感じる。
イザナミがほうむられている場所だという。
しずかな、しんとする場所だった。
同時に、「まあまあそのあたりにおってや」と言ってもらっているような、干渉されない、妙な権威もない居心地のよさを感じた。
ある意味、おおらかさ。手の届かない、荘厳さなどとは異なる「大きさ」「偉大さ」。
次の日は松本峠を歩いた。
わたしには「しんどい」登りと下りだった。
下りはあんがい、らくに行けるかなと思ったところ坂の角度は急になっていき、いつしかひざがくがくのあわあわ状態でくだっていった。
このまま転げ落ちてしまったら・・・などという恐怖とも隣り合わせだった。
降りて、平地におりたときのなんとホッとしたことか。
アスファルト、車がゆきかう一般道がなんと楽ちんに感じられたか。
しばらく歩いて鬼が城へ。
ここは陸地から奇岩が見える、侵食のたくさんある岩道だ。
お天気がよく気持ちよい。青々とした、ゆったりとした海を眺めながらついずいずい歩いていってしまう。
戻ってくる方の「きりがないから途中で戻ってきた」の言葉を聞き、そうか、浮かれて歩いていると帰りは同じ道のりを歩いてくることになるんだなあと、途中で引き返す。
たしかに、人が歩く道はどんどん細くなり歩きにくそうな岩道が続いていくようだ。
お昼ご飯を食べたのち、ナビゲーターの彼女と合流する。
静かな場所がいいな、というわたしの思いをくんだくださり引作(ひきづくり)の大楠をたずねる。
この楠のお方もしずかに大きくそしておおらかに迎えてくださった。
なんだかホッとする。抱きしめたくなる。しかし触れると逆に抱かれている感覚をおぼえる。
彼女に「もうすこし歩けそうですか」と聞かれ、大馬の清滝を案内していただいた。
大馬(おおま)神社の先にある。
ちょっと岩を上るんです。という。まさかまさか。松本峠をへてもう足はがくがくのはず。 とはいえ、ちょっと、とおっしゃっているし。私が事前に「わたし普段からヘロヘロしているんです」と伝えてあるし、松本峠も歩いてきたし。お分かりのはず。
しかしおっしゃるとおり岩をのぼった。
でも彼女の後をつき、ときに手を借りてなんとか滝の近くまでたどりつくことができた。不思議なことに。
彼女は言う。私も最初は、え、こんなところ!と思ったのだという。
それが、ここの心地よさを感じ、自分にかえれる場所だということがわかってくる。そしてそこには単なる岩や石ではなく道が見えてきたのだという。