母が脳出血で倒れた

※今回はかなり重い話になります。

母が脳出血で倒れたのは今年(2024年)の年明け。
整理できるまで書けないな..と思いつつも、今まで生きてきた中でかなりショッキングな出来事だったこともあって、この感情はどこかに残しておきたいとそう思っていました。

発症?してから半年。正直、まだ気持ちの整理はついていません。
でも書くことで整理できるかもしれない。

今後はまた気持ちが変化するかもしれない。
だからこそ今の気持ちを残しておく。それも良いのかもしれないと思って綴ります。


車で2時間の距離

結婚してから家を出て、親とは離れて暮らしている。
とはいえ隣の県で車で2時間くらいの距離だ。

2時間というのは微妙な距離で頻繁に帰ろうと思えば帰れるものの往復4時間だと思うと少し遠い。
だから毎年、年末年始やGW、お盆などの長期連休には実家に帰っている程度だった。

昨年(2023年)の11月末に妊娠が分かり、絶賛つわり中…ということで今年(2024年)のお正月は実家に帰らないことにした。
母には妊娠報告と合わせて伝えていて、
「わかったよ〜体には気をつけてね!」「柚子とみかん送ってあげるわ〜」と返事をもらっていた。

母らしいプレゼント

妊娠報告後、母からは段ボールに詰められた柚子とみかん、私の好きな韓国海苔、サンタさんの形をしたチョコレートが送られてきた。
母は可愛らしいものが好きで、サンタ型のチョコレートを選ぶセンスが母らしいなとほっこりした。

突然の連絡

年明け、私はインフルエンザにかかって寝込んでいた。
元々帰省しない予定だったが、帰省する予定だったとしても帰れなかっただろう。
寝込んでいる最中、父からLINEで「母が脳出血で入院した、今は意識がない状態だ」という報告の連絡をもらった。
状況が理解できない中、姉から電話をもらって色々と説明をしてもらうが、ひどく困惑していたことを覚えている。

状況は良くない

姉からの電話を整理すると、
母は年明けに祖父の家で過ごす予定で(祖母が亡くなって1人で過ごす祖父の家へ定期的に通い泊まっていた)仕事終わりに祖父の家に向かったらしい。
ただ、祖父の家についた途端トイレに駆け込み、嘔吐が止まらない状況だったそうだ。
祖父もおかしいと思いつつ看病をしていたが、近所の目も気になったのか救急車を呼べなかった、また周りの人に助けを求められなかったようだ。

母は発症から3日後に救急車で病院へ運ばれた。
そしてしばらくは昏睡状態が続き、コロナの影響もあり会えるのは転院のタイミングだと知らされた。

後悔

どうして年末に帰らなかったの?とひどく自分を責めた。
里帰り出産で親孝行できたらいいな…なんて呑気に考えいた。

救急車をもっと早く呼んでくれたら…そう思わずにはいられなかったが、祖父も高齢だ。祖父のことは責められない。

結婚をして親元を離れることを決めた時点で、私は誰も責められない。
母は61歳でまだまだ若い。まさかこんなことになるなんて、思ってもみなかった。

姉も私も医療系(姉はPT、私は管理栄養士)の勉強をしてきたこともあって、ある程度の知識はある。
だからこそ、救急車呼ぶでしょ…!どうして…!という思いがしばらくは断ち切れなかった。

知識を持つことの重要さ

年齢を重ねていくとそれなりに体には不具合が出てくる。
母は高血圧症だった。服薬していたものの脳卒中や心筋梗塞などの血管性疾患のリスクはあった。

医療の知識を持つ姉や私にとっての当たり前は、当たり前じゃなかった。
知識を持つことの重要さと、自分にとっての当たり前が人にとっての当たり前じゃないことを改めて認識した瞬間だった。

今は医療とはかけ離れた仕事をしているが、今まで自分がしてきた栄養指導の仕事って実はすごく意義のあることだったのかもしれないなぁと感じた。
知識を持っているのに活かさないのって間違ってるんじゃ?今のWeb系の仕事している場合じゃないんじゃ?と自問自答する日々だった。

母の経過

入院してからというもの、1ヶ月近く昏睡状態が続いた。
実際、脳出血の後遺症がどの程度残るのかは母が目覚めてからしか分からず、不安な日々が続いた。

転院日

脳卒中発症してから母には会えず、ようやく会えたのが転院日だった。
リハビリ中心の病院への転院で、私の車で移動した。

母は傾眠傾向で、ぼーっとしていた。私のことも分からないようだった。
介護施設の栄養士として働いた経験がある私は、
母をみながら「こういう利用者様いたなぁ…」「このくらいのレベルかぁ…」と。
見た目は母だけど、知っている母ではなかった。だからか変に冷静に見てしまっていた。

しばらくは受け入れられず、夫から母の様子を聞かれたり、
「良くなるといいな」というポジティブな言葉が受け入れられなかった。

転院後

転院後の病院は面会OKだったので、転院してから2週間後くらいに会いに行った。
姉から事前に「少し状態が良くなったみたいだよ」と聞いていたので、少しドキドキしながらも会いにいった。

母は傾眠がなくなり意識がはっきりしていた。
喋るといつも通りの母で私のことも夫のことも分かっていた。
ただ、ずっと寝たきりだったので体はしんどそうだったが、手足の麻痺もない様子。

私はすごく嬉しかった。普段の母らしいの姿があったから。

これから、どうしていくか。

父と私は、これからリハビリを続けてなんとか在宅に帰られないかと考えていた。
退院後、どうするのか考えるようにと病院から家族へ話があった。
医師によると身体の麻痺はないが、高次機能障害・短期記憶の低下・注意散漫が見られるとのことだった。

要介護3の判定

残念ながら、リハビリを続けても母の状態が向上することはなかった。
注意散漫は少し良くなったが、短期記憶が保持できないようだった。
母が食べたいと言って差し入れた「桜もち」
ついさっきの事なのに、1人で何個食べたか忘れてしまう母。
受け入れるしかなかった。

LINEのやりとり

入院中、暇になるだろうからとiPadを購入して母にプレゼントした。
ゲームをしたり音楽を聞いたりと少しでも退屈を凌いだり、楽しみを作ってあげたいと思ったからだ。
姉がLINEのアプリを入れてくれて、母とLINEで繋がることができた。
でも母とのやりとりはLINEを入れたことを後悔するくらいに、正直過酷なものだった。
止まらない帰宅願望、同じ内容のLINEが何通も送られてくる。。
今までの母とは違うんだと理解せざるを得なくて、悲しかった。

グループホームへの入所

退院後、在宅介護を希望していた父と私。でも状況はそこまで良くなかった。
父はもうすぐ70歳だ。
姉も私も実家から離れて暮らしており、小さい子供もいる。出産も控えている。
母の状況的ずっと側で見ていないと危ない状態。在宅で見るのは本当に大変だよと医師やソーシャルワーカーさんからの助言もあり、在宅での介護は諦める運びとなった。

少しでも母が自由に過ごせるようにと、父が色々と施設見学に行ってくれてグループホームへの入所が決まった。

母への思い

グループホームに入所したことで、母には会いやすくなった。
病院にいた頃は面会時間が15分までと制限されていたし、どこかに出かけることもできなかった。
グループホームに入所したことで、外出も外泊も事前に伝えておけば出来るようになった。

在宅に返してあげられないこと・母がこのようになってしまったこと、悲しくないというと嘘だ。
今までの母とは少し違う。でも、話すと母は母のままで、性格も話し方も母なのだ。
発症時は母が亡くなってしまうんじゃないかと怖かった。
転院時は私のことも覚えてないんだ。もう話せないんだと思ってショックだった。
だから、今、普通に話せる。生きてくれている。それだけで十分だと感じている。

生きていてくれてよかった、でも優しくできない

母にはiPadを渡していてLINEで連絡が取れる。
LINEで「辛い」「帰りたい」「死にたい」「訳がわからない」「助けて」などのメッセージが頻繁に送られてくる。
文章は上手く作られているときと、訳がわからない時がある。

母は自分が覚えられないこと、忘れてしまうことに焦燥している様子で、辛さが伝わってくる。
でも、症状をよくする治療方法もないし、何もしてあげられない。
生きていてくれてよかったと思う反面、最近は気持ちを受け止めることがしんどくなってきてしまっている。

母には楽しく過ごしてほしい。だからこそ、定期的に面会だって行くつもりだし、母の好きなフルーツ狩りなどにも連れて行ってあげたいと思っている。
数日前に会ったって、楽しいことをしたって、何度伝えたって毎日リセットされてしまう。
だからか、最近はLINEの返信ができなくなってしまった。暖簾に腕押しといった感じで、こちらが何をしても母は「辛い」気持ちを訴えてくる。
私は今の母を受け入れられないのだろう。。

母の脳出血の後遺症は認知症に近いもので、在宅介護をしている人をひたすらに尊敬する。

今の母と付き合うほど、過去の母が上書きされていく感じがして辛い。
私のことを第一に考えてくれた母はもう居ない。

母が母自身を受け入れるまでに時間がかかるのと同じで、私が母を受け入れるまでも時間がかかるのだろう。

綺麗事ばかりではないなと実感する。

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