IKEAの時計
我が家の壁には、俺が昔、IKEAで数百円で買った時計が掛かっている。
別に気に入っているわけではないが、一人暮らしの頃にテキトーに買ったものがそのまま残っている。妻は他の時計が欲しいと言ったが、かれこれ1年弱、良いものに出会えず、未だにこれを使っている。
邪魔になるデザインではないし、機能もするので何の問題もないが、他の家具には多少なりとも気を使っているだけに、誰かが遊びに来たときに見られるのが少し嫌だ。うちに遊びに来た友人たちは、「え、家具はこだわってるのに、時計はこれなんだ。ダサっ」と思っているに違いない。
友人たちは、たとえダサいと思っていても、わざわざそんなことを口に出したりはしない。かと言って、「時計だけまだ買えてなくて、とりあえずこれ使ってるんだよねぇ」と自ら切り出すのは、この時計を使っているという事実よりもダサい。
だから、友人たちの中では、俺と妻が、他の家具と同じくらい気に入って、この安時計を部屋の中心に配置する、インテリア偏差値30の夫婦ということになっている。
誰もそこまでお前に興味ねぇよ。分かってる。
これはさすがに自意識過剰だとしても、みんな、程度に差はあれど、何かしら自意識を持って生きている。
こんな話を書いていたら、恥ずかしい記憶が蘇ってきた。
20代前半の頃、可愛い女の子を含む何人かの男女が俺の部屋に遊びに来た。
俺の本棚には、『男と女がすれ違う理由』みたいなタイトルの本が置かれていた。これを女の子に見られてはマズいと思い、みんなが部屋に入ってくるなり、俺はわざわざ自分から、「これ、〇〇さんが書いた本なんだよ。あげるよ。読んでないけど」と冗談っぽく言って男友達に手渡した。
〇〇さんが書いたというのは真実だし、その人は男友達と共通の知り合いでもあったから、会話としての違和感は生まれないはずだったが、そこにいた全員の脳内では、「別にこれは俺が気になるから選んだ本なのではなく、単に知り合いが書いてるから買ってみただけだ。実際こんなものに興味はないし、いらないからあげる」という、この上ないダサくて説明的な言い訳に正確に翻訳された。
相手の受け取り方を予め期待して発した言葉は、殆どの場合、その期待が透けて見えてしまう。自分がどう見られるか、受け取られるかを、相手の課題として完全に切り分けることができたら、どれほど人生は楽になることだろうか。