D.D.G. -Hope to Live, Want to Kill- (Sequence 7.)
Prev.↓
Sequence 7:Crows' Claws.
生存の存続という点で、隣人は敵になり得る。
狩猟採集を行なっていた時代は村同士が啀み合ったし、その村が巨大化して都市国家、ひいては国民国家となってもそうだった。反対に、その国家の中の小集団や個人にフォーカスしても、小競り合いや争いは繰り広げられている――自らの快適な生存を実現する為に。
それはこの、下層においても同じ事だった。
「淡落さん!」
下層に縛り付けられた一大集団――『烏合の衆』の一員が、現在の長である淡落に簡潔に状況報告を始めた。食糧を奪いに襲撃を仕掛けたとのことで、人数は4人。少ないとは言え、無視はできない。食糧を奪われるというのは、現在文字通り死活問題だからだ。
「……この忙しい時に」
淡落は出そうになる舌打ちを抑える。この糞程忙しい時に、という苛立ちはあるものの、食糧を盗みたくもなる気持ちは同じ下層住人として分からなくもないからだ。
しかし、襲撃者に食糧を渡すという選択肢は無かった。中層を抜け、上層に一歩近付く為、あの異様な男――報炉が回復するまで待たねばならない。それには数日必要で、従って数日分の食糧も必要となる。最早1gとて無駄にできない。
『甘えは捨てろ』。
親友の言葉が、頭の中でリフレインする。
「……この件は、病骸と瞑離に一任する」淡落は、決意という固い芯を通した様な声で『烏合の衆』に告げた。「一部は病骸に付いて行け。俺は瞑離の元に。残りは待機、有事の指揮は物濠だ。……良いか」
淡落は自らをも戒める言葉を掛ける。
「容赦はするな、しかし殺すな。悪くて半殺しだ、逃げるだけの力は情けで残せ」
全員が頷く。中でも病骸は、責任と興奮の狭間で冷静さを保ったまま外へ駆り出す。彼女の背中を追いかけて、一部の人々も部屋を出て行った。
「……すまねえな」
こんな時に無理をさせて――と仲間に謝り。
こんな時に救えなくて――と敵に謝り。
淡落は、目の色を温情から冷酷に変える。
一歩踏み出す。目指す場所は、食糧庫。
***
「ここですぜ、兄貴」
「みてェだな。有能で助かるぜ、弟よ」
へへっ、と鼻の下を擦る弟と呼ばれた男は、直様目の前にある分厚い倉庫の壁の鍵穴に針金を差し込んだ。それから針金を上へ下へと動かす。素人目には出鱈目に見えるが、着実かつ確実に、ロックが外れる音が聞こえ始めた。
この中に、食糧が溜め込まれている。そして最近はどうにもその見張りが居ないらしい事も既に別の男によりリサーチ済みだった。もう少しで渇望する食糧にあり付ける――溢れそうな唾液を飲み込み、作業に集中する。
弟と呼ばれた男――今は生まれた名前も忘れてしまった彼は、中層にいた昔から手先が器用だった。朧げな記憶が、親に褒められ頭を撫でられる像を頭の中で結ぶ。その過去の自分の手には、大人でも中々に難易度が高い小さな部品満載のプラモデル。将来は、こういう手先の器用さを活かして、機械の製造や整備士になろう――とでも思っていた。弟にはその記憶は既になかったが、過去の事実を述べるならば、確かにそうであった。
だが、その夢は直ぐに潰える事となる。何らかの理由で彼は親から引き離され、中層から下層へと叩き落とされてしまったのだ。離れ離れになる時に親が居たが、どんな表情をしていたのかはもう思い出せない。
こうして突如彼は、弱肉強食の世界に放り込まれた。草食動物の如き彼は、このまま何者かに殺されて肉を喰らわれ死ぬのだろう、と直観した。そして実際死にかけた。空腹と疲労と痛みの中で、灰色の空を見上げていた。
そんな時、運良く出逢えたのが、この兄貴と呼び慕う男の存在だった。彼を逃してはならないと手先の器用さを売り出し、彼の仲間に入れて貰った。今や数々の難局を潜り抜け、何度も死にそうになりながらも生き延び、彼らはすっかり義兄弟として関係を強めていた。
そんな彼は今もまた、難局に立ち向かっている。
下層における一大勢力。淡落という男を中心とした集団。見つかればほぼ間違いなく殺されるだろうが、見つからずに食糧を奪えれば暫く安泰。正しくハイリスクハイリターンな仕事だった。
だが今回だって乗り切れる、と弟は根拠のある自信を持っていた。それを武器に冷静に手早くピッキングを続け、もうじき終えようとした時。
ガラン。ガラン。
遠くから、何か空き缶がぶつかる様な音が聞こえた。雑音が鳴るのは良くある事だったから普段は気に留めないが、弟はその音の正体がよくよく分かっていた。それは兄貴も同じである。
「余裕だな、流石は弟」
しかし兄貴は焦ったさを全く見せずに弟を鼓舞する。それは弟に対する信頼の証でもあった。
「奴らの出撃が近ェが、全く問題無さそうだ」
「これ位起き抜け直後でも出来ますぜ、兄貴」
弟は臆せずピッキングを続ける。ガチャリ、ガチャリ。あとどの位で鍵が開くのか。下層最強と名高い戦闘集団がやって来れば、如何にこの兄弟と言えど一溜まりもないが、信頼する兄貴の言葉に弟は勢い付いていた。
「後は、無事にアイツらが帰って来れば良いんだが」
「大丈夫ですぜ、兄貴」
針金を動かしながら、今度は弟が自信たっぷりに告げた。
「アイツらなら、きっと勝てますぜ」
「……そうだな。そう信じよう」
――ガチャリ。
倉庫の扉が開錠した。義兄弟は目を合わせ、笑い合う。
「やったな」
「やりましたぜ」
「んじゃあ、とっとと仕事を終わらせちまおう」
「へい、兄貴」
弟は針金をズボンのポケットに仕舞い、扉に手を掛ける。兄貴も扉に手を掛けた。そして目を合わせて頷き、息を合わせて横に開く――。
***
……情報に無い!
右のレンズが抜け落ちた眼鏡をした男は、汗を額に流していた。目の前には大柄な男が泡を吹きながら仰向けに昏倒している。それは眼鏡男の仲間であり、同時に兄貴と弟のコンビの仲間でもある男だった。
戦闘センスがピカイチの大男の上に、一人の女性が乗っている。くすんだ銀髪をした彼女は華奢な体で、とても男に勝てそうに無い身なりだ。実際、眼鏡男も大男も、余裕だと油断していた。
だが、女に打ち負かされた。それも瞬殺である。
女は大男の太い二の腕を掴み、足を地面に食い込ませながら、倒れた大男の肩に噛み付いていた。
「……ハァァァッ」
女は肩から口を離す。口の中に溜まった唾液を吐き出し、眼鏡男にぐるりと向き直る。ひっ、と思わず喉を鳴らす彼に、女――『烏合の衆』の一員である病骸は静かに言葉を発した。
「……今、私はとっっっっってもムシャクシャしてる」
牙を剥き出しに、ふぅ、と力任せに息を漏らす。瞳は怒りの炎に燃えていた。
「本当はお前らを殺したい。殺してしまいたい。でも駄目。淡落さんの命令は絶対だから。折角任せてくれたから。私はその命令には従う。でもあのいけすかない赤髪の女のせいで、私はイライラしてる。心の中が沸騰して破裂しそう。だから、だからね。半殺しで許してあげる、侵入者さん」
2度と立てなくしてあげる。
支離滅裂に聞こえる言葉と共に、ギリギリ、と地面が削れる音が聞こえた。病骸が爪を無理矢理に引っ掻いていたのだ。何度もそうして耐性がついているのか、爪は割れる事も傷付く事もなく、反対に地面の方が削れていた。
データに無い、と改めて眼鏡の男は思う。
あの淡落の束ねる集団に、こんな狂信者的で気狂いじみた女が居るなんて、聞いていない!
それに何故大男が昏倒したのか、全くの謎だった。あの女に聞き出すかあの女に咬まれるかで正体は割れるだろうが、どちらも御免だった。
「……」
病骸は睨んだまま動かない。眼鏡の男もまた同様だった。
(……どうする)
眼鏡の男に残された選択肢は3つ。戦うか、降参して退散するか、裏切って軍門に下るか。
裏切る選択肢は端からなかった。兄弟の契りを交わした彼らを裏切ることは、眼鏡の男にはできなかった。
ならば戦うか――となるが、負ける確率が90%以上であるという結果を弾き出していた。窮鼠猫を噛む、という状況も有り得るが、あまりにリスクが大きい。
従って考えれば考える程、選択肢はただ1つに絞られた。
弱者には手に取れる選択肢が少ない。子供に無限の可能性があっても選択できないのはそういう事だ――中層に住んでいた時、辛うじて通っていた学校の先生から教わった『子供には無限の可能性がある』を眼鏡男は曲解する。
それから彼は、口を開いた。
「……降参だ」
男は両手を開いたまま頭の上へ。その姿勢を見た病骸は。
「……そう」
と言って。
四肢で地面を蹴って飛び掛かり。
眼鏡の男の肩に噛みついた。
「っっっ!!?」
男は驚愕する。同時に彼はこのままではやられないと思い、隠し持っていたナイフを手に取る。柄を掴み、刃を鞘からすらりと出して、腕を振り上げ、切先を病骸に。
……刺す前に、ナイフを地面へ落としてしまう。それどころではない苦しみが――窒息の苦しみが、彼を襲い始めたからだ。
「……っく、ぉ゛、っ」
中空を引っ掻く様に両手を蠢かせ、次の瞬間には首を押さえた。だが苦痛は収まらず、寧ろ意識が遠のく感覚がする。次には首の皮膚をがりがりと掻き毟るが、全く窒息感は癒えない。
とうとう男は泡を吹き、そのまま倒れた。しかし彼は気絶しただけで死んでいない。
半殺しまでという淡落の言葉を、病骸は忠実に守っていた。
「言ったでしょ、半殺しって」
降参程度で許されるとでも?
既に声の届かない彼に、病骸は八つ当たり気味に独り言を呟く。
「本当はぶち殺したいけど、命令だから。そこで安らかに眠っとけ。今に仲間と一緒にしてあげる」
だから後は頑張って、瞑離。
はぁぁ、と獰猛に息を吐き切り、病骸は近くにある壁を背に、手足を投げ出してしゃがみ込む。それから、くあ、と欠伸をする彼女を、周囲に待機していた『烏合の衆』の面々は見ていた。
感嘆と、恐怖でもって。
***
ピッキングに成功した弟と兄貴は、食糧庫の扉を開けようとした。
だが結論としては、できなかった。
「ッ!?」
「あ、兄貴ッ!」
扉を開けようとした二人の男の内、兄貴と呼ばれる方の首根っこが何者かに掴まれたのだ。力を込められ気道を塞がれ、無理矢理細くされた息を吹く。その凶行を為す者の姿は兄貴の姿に隠れてよく見えない。
「か、あっ……!」
「テメェ! 兄貴に手を出すんじゃ――!」
弟は兄貴を助けるべく扉から手を離し、攻撃態勢へ移行。だが同時、兄貴の首を掴む手も離れる――どころか、兄貴は背中を蹴られて弟の元へ吹き飛ばされた。突然の事に対応できず2人は仲良く頭突きをし、額に痛みを感じながら地面へ倒れ込む。咳き込み俯く兄貴を横目に、弟は叫ぶ。
「っ、誰だ!」
兄貴がいた場所に視線を向ける。しかし、そこには誰もいない。
目を離した一瞬で移動したのか――そう思い周りを見ようとしたその瞬間、後頭部に強い衝撃。弟の目がぐるりと上を向いて意識が落ち、痙攣しながら仰向けに倒れた。
異常を察知した兄貴が視線を上げる。そこには倒れる弟以外誰もいない。
「弟っ!」
怒りよりも混乱が勝る。兄貴は逃走を選びかけたが、弟をコテンパンにされて引き下がる訳にはいかない。
何処だ、何処にいやがる――と右へ左へ視線を動かしたその瞬間。
ぞわり、と兄貴の背筋が粟立つ。
背後に、何かいる。異常な殺気を発する、得体の知れない何かが。
反射的に後ろを振り向いた。だが、そこにも誰もいない。恐怖感と苛立ちから、兄貴は叫んだ。
「っ、糞! 誰だ、出てきやが――!!」
刹那。
再び背後から首を掴まれ、絞められる。
「ぐっ、あ……っ!?」
最早訳が分からない。姿の確認できない敵に、兄貴は幽霊でも相手にしているのでは無いかと疑った。しかしこの首にかかる手も、絞殺されんばかりの苦しみも、紛れもなく現実。
一体誰だ? そして、どうやった?
その疑問は解消する事なく、兄貴の意識は遂に霧消した。
どさり、と倒れる兄貴の背後に、可愛らしい少年然とした男が立っていた。死んだ魚の様な目で、彼は倒した2人の男を黙って見ていた。
彼の名前は瞑離。『烏合の衆』食糧庫の番人にして、姿を見せずに敵を倒す事に特化した暗殺術の使い手。その暗殺術に名前はない。彼が独りで編み出した、無名有実の独自流派。
そしてその流派の毒牙にかかった者は、1人として瞑離の顔を知らない。それは殺されたからであり、仮に運良く生き残ったとしても、彼の事を視認できなかったからだ。今の、この義兄弟の様に。
――倒れた義兄弟を眺める瞑離の背後に、足音がやって来る。数は1つ。
しかしその足音を判別した彼は、暗殺術を使う事なくだらりと両腕を下げた。
果たして瞑離の前に姿を現したのは、淡落であった。倒れる男2人を見て、怪訝な顔をし開口一番。
「……殺してないだろうな?」
瞑離は首を横に振る。その返答通り、確かに倒れている2人の男には辛うじて息があった。じきにどちらも目覚める事だろう。
「なら良い。ご苦労だったな、瞑離」
首を縦に振った。僅かに口元が上がっていた。
その反応を見届けた淡落は、食糧庫の鍵を再びかけ、途轍もない膂力で男2人を担ぐ。彼らは病骸が倒してくれたであろう仲間の所に連れ、放置する予定だ。これに懲りて、食糧庫を襲うことは無くなるだろう。
尤も、数日後には襲うべき対象も奪うべき食糧も、何もかも無くなっている訳だが。
背を向けて歩き始めつつ、淡落は瞑離に告げる。
「あと数日、よろしく頼む」
言い終えると同時、瞑離は不気味にその場から消え去った。
***
「す、すみません。何から何まで……」
こうして。
闘いを繰り広げて守った食糧の一部は、申し訳なさそうにサンドイッチを齧る絡生の腹の中に収まることとなる。
「良いんだ。束の間かもしれない休息は、今の内に取っておけ」
あれから数日。4人義兄弟の襲撃があって以降は実に平和なものだった。そもそも『烏合の衆』の実力故に特攻する無謀な事をする輩がいない、というのが最も大きな理由であった。嵐の前の静けさの中、彼らは何の問題もなく食糧を守り切り、そして今日その全てが尽きた。
そう――あれから数日。
つまり今日が、関門への突撃の日――下層から中層へと侵入する日。
計画の実行まで、あと1時間を切っていた。
「……」
サンドイッチと一緒に、絡生はその事実を噛み締める。
遂に帰れる、故郷である中層に。
期待と不安で胃が圧迫されるような感覚に襲われたが、大切な食糧を吐く訳にはいかない、と何とか押し留めた。
「大丈夫だ」
その不安を容易に感じ取ったのか、淡落は背中を摩るが如き優しさで声をかける。
「お前の中に巣食うアイツがどうにかこじ開けるだろうさ。アイツ、あの日から1度も顔を見せない程、余裕をこいてるんだから」
「……そう、ですね」
絡生は頷く。そう、あの襲撃時に意識を落として以来、報炉はめっきり姿を現さなかった。まるでぐっすり眠りこけているかの様に。淡落が会議をしたいと、申し訳なく思いながらも絡生に起こすように要請しても、うんともすんとも返事がない程だ。
とは言えそのお蔭でこの数日間、絡生は久々にのびのびと過ごす事が出来た。とても強い人達に守られながら食事を提供してもらえる環境は、彼女に安心感を与えるにはあまりに十分だった。
しかしそんな日々も、ここで終わり。
また血と暴力に彩られた日が舞い戻る――。
【……っあー、よく寝たぜ】
その凄惨な日々の幕開けを告げる様に、赤髪の男が絡生の隣で伸びをした。絡生にしか見えない彼は、絡生に振り向き、にたりと白い歯を見せる。
【どうだ、マトイちゃん? 束の間の休暇は精々楽しめたかよ?】
「……お蔭様で」
そっぽを向く絡生だったが、幻覚である彼にはそんな視線逸らしなど通用しない。直ぐに彼女の目と鼻の先まで瞬間移動し、態と顔を近づける。
【だろうなァ。俺様が居なくて清々していたのが、手に取る様に分かるぜ】
ついでに今どういう状況なのかも把握している、と報炉は下卑た笑いを発する。彼と絡生は文字通りの一心同体、心を読むことなど赤子の手を捻るより楽だった。
「……目が覚めたのか」
明らかに表情が変わった絡生の様子から状況を察した淡落が尋ねると、躊躇いがちに頷く。
もう自分の役目は終わりだ、後は報炉が上手くやってくれるだろう――と絡生が意識を落とそうとする。
が、それに淡落が待ったをかけた。
「待て」
絡生の髪は黒から赤に染まり始めていた。だが目には少女らしい純粋な光が宿っている。
まだ間に合うか。淡落は口を開く。
「意識を落とす前に、折角だ。もう一度伝えておく――」
「遅ェよ」
しかしその制止も虚しく、髪は急激に赤く染まっていった。報炉は意地悪く口端を吊り上げ、悪どい顔をする。
「間に合わなかったなァ。マトイちゃんが意識を落とし始めちまえば、乗っ取るのは容易いんだ。言いたいことがあるなら、次からは気をつけるこった」
次があれば、の話だけどよ。
嗤う報炉に、淡落は「そうだな」と力強く答えた。
「次からは、気を付けるとするよ」
「……つまんねェの」
チッと舌打ちしてから、「それと」と後頭部を掻きながら言い放つ。
「不愉快なんだよ、さっきから後ろで俺様の死角をコソコソと。今ムカついてるから、出張ってブチ殺してやろうか?」
「っ!?」
淡落は驚愕する。
今この部屋には確かに、あの暗殺者の瞑離がいる。食糧庫の中身が空になったからお役御免となって基地に戻って来ていた訳だが、彼の存在に気付いたのは淡落を除けば、報炉が初めてだった。
それだけ、彼の暗殺術は優れている事の証左であり。
それだけ、報炉の観察眼が異常である事の証左でもあった。
「……まだ隠れるつもりか?」
ドスの効いた声で殺気を飛ばすと、脊髄反射で殆ど自動的に、瞑離は報炉と淡落の死角を走る――報炉を殺す為に。生存本能が、コイツは活かしてはおけないと警告を発したのだ。
そしていつも通り、誰に気付かれる事もなく首を掴んで圧し折るだけ。そんな瞑離に対し、報炉は余裕で待ち構えており、レクチャーする暇さえあった――完全に彼は、瞑離がどの方向からやって来るのか、殺気を飛ばして察知していた。
人間は、幽霊じゃない。完全に透明になれる訳がなく、物理的な肉体はどうしても残る。だから死角のなくなる程、全方位に殺気を飛ばせば、必ず何処かで敵の肉体が殺気に打ち当たる。それこそまるで、泥棒を捕まえるレーザー感知システムの様に。
報炉は殺気を飛ばして掴んだ方向――斜め左後ろに視線を向ける。予想通りそこには少年然とした男――瞑離が駆けてきており。
ほぼ同時。
瞑離は、報炉への攻撃のリーチ外で突如足で地面を踏み込み、立ち止まった――攻撃の手を止めた。
「……あ?」
眉を顰めるが、珍しく人の前に姿を現した瞑離はただ、俯き加減に視線を逸らすだけだった。一体何を思って足を止めたのか、報炉には分からない。
「……ったく、何なんだ」
意味が分からない、と舌打ちと溜息のコンボを決め、うんざりした目で天井を仰ぐ。
「どいつもこいつも、歯応えがありゃしねェ」
「……争ってる場合じゃないだろ」
溜息を吐きたくなったのは淡落の方だった。
「あと数十分で作戦決行なんだぞ」と正論で小突いてから、その勢いのまま更に心中を吐露する。「第一、俺達は作戦内容を何も聴いていない。ずっと眠りについていたお前から――」
「そりゃァ、言ってないからな」
そんな不満に、いけしゃあしゃあと報炉は言う。それに片眉を上げる淡落に「おいおい」と両手を広げて嘲笑った。
「そうカッカすんなって。分かるだろ? 此処は情報が全ての国。何処から漏洩するか分かったもんじゃねェ。だから俺様の頭の中だけに留めといたってだけの話だ」
「なら今教えてくれても――」
「いいや」報炉は笑みを浮かべる。「このまま行く。お前らに作戦内容は一切伝えない。リスクは少しでも無くしておきたいからな」
だが安心しろ、と報炉は笑って続ける。
「成功確率は100%だ。失敗する事は億に一つも有り得ねェ。俺様の後ろに黙って居れば良い」
馬鹿みたいにな。
――その7文字だけは喉奥に飲み込み、報炉は建物を出る。淡落達は後で付いて来るだろう、と全く後ろを振り向かず、関門へただ向かう。
ふと空を見上げる。一面の曇天。先行きの分からぬ未来を暗示する様に、鈍色の雲は明るい青空を覆い尽くしていた。
「さァて、と」
だが、報炉は全く意に介さない。未来がどれだけ闇に塗れていようとも、自ら照らして目的地に辿り着くだけの話だからだ。そして彼は、それができるだけの力を持っている。
中層へ辿り着き、上層の連中をブチ殺すまでの道程を照らし、徐々に歩みを進めていた。
その先の暗闇で、幾つもの大きな穴が紛れていることに、報炉はまだ気づいていない。
「一仕事だ――鼻を明かして、道をこじ開けてやる」
報炉は1つの記憶端子を取り出す。数日かけて回復したので、過報を引き起こすまで、あと3回記憶端子を使える。計画では1回だけ使えば事足りるので、万が一何かがあっても残る2回でリカバリーが効く。
楽勝だ。
余裕の笑みを湛えながら、記憶端子を首筋に挿し込んだ。頭の中で、電子音声が鳴り響く。
【――Memory Bus, certified. Code:――】