【不定期雑記 #41】芥川とショウペンハウエルと小説 #呑みながら書きました
ドーモ、透々実生です。
この記事は、こちらの企画への参加です。例によって遅れたので後夜祭参加。書こうと思っていると出遅れることが多い。
別に義務な訳ではないし、遅れた所で怒られることはないので良いのですが。というわけで、濃いめのレモンサワーを500mlいただきながら、こちらを書いていこうと思います。今は大丈夫だけど、そのうち酔ってくると思うので。
で、この企画をやるたびに、私は小説についてのなにがしかを書いている気がします。確か、記憶が正しければ、前回は色々と書くのを中断していた話だった気がするのですが、あの後、小説を書く中で色々あり、本当に久々に、2~3週間ほどなにも書かない時間というのを作りました。それはもう高校生のとき、初めて書いていた一時創作の小説がうまくいかず、2年ほど更新を止めてしまったときのようなものです。思えば、あの時は小説を完結させたことなんて、ついぞ無かった気がしますね。
話がずれました。小説を書けなくなった話ですね。今書いている小説に関してになるのですが、題材を探りに行ったら、完全に精神をやられてしまい、しかし「自分はまだ登場人物の気持ちがわかっていない!もっとわからねば」となってのめり込んでいってしまい、心を病んでしまったんですね。今にして思えばただの馬鹿ですし、妻にもしっかり怒られました。
いや、現在誹謗中傷をテーマの1つに据えようとしておりまして、そのテーマを扱うにあたって、本当に誹謗中傷を探しに行ったのです。やるべきはそっちじゃないんですが、私は自分で、「感情がうまく汲み取れない」人間だと思っている節がありまして。というより、感情がしっかり自分の中にあるのか分からない状態になることが多くて。なので、「誹謗中傷を受けるとどんな気持ちになるのか」を探りに行ったのです。もう馬鹿。今の私からしたら昔の私の胸倉を掴みに行きますよマジで。
まあ、そんな独沼みたいなところに行ったらですね、そりゃ精神を病むというのは必定と言うわけですから、しばらく小説が書けなくなってしまいました。しまいには、自分で書いているものが本当に面白い物なのか?というのが分からなくなる始末。これ、自分の感情とかの掃きだめというか、そうういうのになってないか?みたいな。
そういう状態の時に読んだ、芥川龍之介の『地獄変』はすごく刺さるものがありました。自分で見た・経験したものしか書けない絵師が、最終的に自らの娘に手を掛けてしまうという話。「手に掛ける」というのがどういう状態なのかはぜひ本作を呼んで貰うとしてですね、とにかく、こういう状態に私は陥っていたんじゃないだろうか。いや、どうにもそこまで創作というものに真正面から向かい合っていないのだから、私がその件の絵師と比較するのは甚だ傲慢とさえ言えるのかもしれないけれど、(何せ趣味でやっているので。)それでもそういう暴走の仕方をしてしまいかねなかったのではないかと。
昔の作品と言うのは良いもので、今や青空文庫で、著作権が切れていればアーカイブされているのですから、お金を出さずとも読める。そして、昔から名作として(あるいは迷作として)語り継がれているものは、何かしらの含蓄を秘めている。耽美主義とかに走るとその限りじゃあないのですが、「そういう風に世界を見ているのか」「こういう風に世界を見れるのか」と、その著者の中に眠っている思索の一端を垣間見ることができるようで、とてもワクワクします。そういう意味で、読書というのはいいものだなと思います。
だというのに今日は、ショウペンハウエルの「思索」の編を読んで、「読書というのは読者の精神に思想を押し付ける。本当に思索をしたければ、読書ではなく、何の思索も絡んでいない生の情報(たとえば風景とか?)に触れるべきだ」「その思索が行き詰ったときに読書をするのは有効だが、あくまでも読書の押し付ける思索に自分の思索をはめこむのではなく、自分の思索という体系の中に組み込んで、視野を広げるものだ」ということを知らされてしまったので、また考え込んでしまうなどしました。一体、私にはどういう風に世界が見えているのだろう。この私の見えている世界は、他の著者の借り物だったりはしないだろうか?大丈夫か?きっと大丈夫だとは思うのですが、何か他の影響を多分に受けすぎていやしないだろうかと思う事もあります。
まああくまで、上記の思索というのは学者などを想定している話ではあるので、直接小説の話をしていないはずなのですが、うーむと考えさせられる一説ではありました。自分は世界を、どう見ているのだろう。
1つ言えるのは、周りを取り囲む世界というのは、どこかで私を弾劾しようとしているのではないかと思っている事、しかしそれでも私はどこかで親愛の情というか、そういうものを抱いているので敵として完全に見なすことはできないものであると、昔からそう思っているのは事実です。多分に、小学生の頃に同級生からも先生からもいじめられていた記憶が強いので、なおのことそう思ってしまうのかもしれません(それでも親が私の見方をしてくれたので、人間不信にはギリギリならずに済んだのかもしれませんが)。こういう見方は、実のところは普通なのかもしれないですが(普通、という言葉は危険なのであまり使わない様にしていたのに……)。これで私が親愛の情とかを抱けなくなって、全世界敵だ!と思い込むようになれば、何かしらの事件を起こしていた可能性だってあります。世間で最近起きている物騒な事件のように。今は妻がいて、会社でも頼りにされていて、それなりに付き合いのある友人もいて(高校の時から付き合いのある友人)、まあまだまだ世の中捨てたもんじゃないよな、と思えてはいますが。もしかするとこういう状態ってとんでもなく幸運なのかもしれません。あるものの価値は失って初めて気づく、みたいな格言?がありますが、そうならないように自戒しつつ、感謝しながら付き合っていきたいものです。まあ、普段するのはくだらない話だったり、バカみたいな話だったりするわけですが。
何の話からこうなったのか、酒に侵された脳ではいよいよ分からなくなってきましたが、まあいいでしょう。呑みながら書く、というのはそういうものです。
しかし、別に自分の世界観の見方を作品の中に充填する必要は必ずしもないとは思っていて。まあ、趣味とか性癖とか、そういうのはガンガン入れて行けばいいと思うんですけれども。自分の世界の見方とか視点とかを入れ過ぎると、途端に気持ち悪さを覚えてしまうからです。具体的な作者名は伏せますが、すごーく嫌いな漫画家さんがいまして、何度か炎上しているのですが、それは自分の世界観を入れ込み過ぎて、その主張が作品を貫通してダイレクトに向かってくる感じがして、嫌になるのです。先の「思索」の話に繋げるのであれば、多分それは「押しつけがましさ」によるものではないかと思います。「これが正しいだろ!!!」と作者から言われると、拒否反応を起こしてしまうようなものではないかと、最近は思う様になりました。でも、押しつけがましいからこそ、読んでしまうと強制的に受け取らされてしまい、結果的に「何なんだこの漫画は!!!」となって炎上する、ということなのかなあ、と今思いました。合ってるかは知らんけど。
酔った人の与太話、ということでここはどうか1つ。
それでもまあ、なんやかんやあって小説は書ける様になりまして。今は件の誹謗中傷の話を書いていたりします。今は26話目だった気が。単純計算で、1話3000文字だとしても78000字書いているようです。すげえな。10万文字くらいでフィニッシュさせられたらいいなと思っています。この小説のために自律AIとか色々調べていて、結構面白かったのでその話もいくつか組み込んでいたりもするのでお楽しみに。
あとは、ちょいちょい思い浮かんだら小説を書くようにしていまして、割と何回か参加している小説の個人企画大賞『空色杯』で、視聴者選考賞をいただいたりもしました。数十作品(場合により十数作品)の中から、まずは二次選考に3作品が進んで、そこから大賞を決める、みたいなコンテストなのですが、5回参加して、4回進出し、進出したものは何かしらの賞をとっているという感じです。前の不定期雑記にも書きましたが、割と快挙だと思います。よろしければぜひ。ゾンビガールと、その恋人の行方を描いている、ゾンビアポカリプス恋愛モノです。ジャンルぐちゃぐちゃ。
もう前までに色々言ってきましたが、結局自分が書きたいと思ったものを書くのが一番楽しいわけでして。小手先の思考とかテクニックとかは色々弄することはできるけれども、結局「これを書いてみたいよね!」というのがあれば、それに従って書いてみるのが一番だと思うのです。
そんなこんなで最近は、誹謗中傷と自律AIの話を書いていたり、それが終わったら大怪獣・ホールケーキみたいな話を書こうと思います。それが終わったら溜まっている連載作品を前へ進めなくては……という気持ちですが、焦らず1つずつ進めていこうと思っております。
それでは~
(今から全体のタイトルを考えて、それから投稿します)
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