見出し画像

ローズピンクとの思い出

それは赤ではなく、はっきりとしたピンク(色鉛筆のももいろ)でもなくて、もう少し赤に近い混ざり合った色をしていた。
"ローズピンク"というのだと、おそらく商品説明にでも書いてあったのだろう。
幼稚園児のわたしにはその色は酷く大人びて見えて一瞬で惹かれた。多分「これがいい!」とただを捏ねたのだと思う。「これ以外は嫌だ」と主張したような気もする。覚えてはいないがわたしならしそうだ。まだ自分を抑えることを知らず、はっきりと意思を示していた頃のわたしなら確実にそう言っているはずた。
そうして、まだランドセルは赤と黒が主流の時代、ローズピンクという洒落たランドセルが6年間わたしの相棒だった。

わたしは気に入ったそのローズピンクのランドセルを大切に大切に傷ひとつつかないように扱った。雨の日にはちゃんと雨よけカバーをして濡れないように心掛けた。幼い子供にしてはマメだったと思う。しかしどうしてもついてしまう細かい傷や開け閉めを繰り返すことで出来てしまう皺。本当はそれさえも付けたくはなかった。そういった細かな傷みも限りなく最小限に抑えていたつもりだ。
周りの子たちのランドセルが傷だらけだったりしわしわだったり、ぺしゃんこに潰れていたりと、年々様変わりしていく様を見て「かわいそうだ」と思っていた。
どうしてあんなに乱暴に扱えるのだろう。
それは大層酷いことのように思えていた。

しかし、はっきりと覚えている。
四年生の時だ。
それ程大切に扱っていたランドセルにも大きな傷がついてしまった。
その日の朝にはまだそこには何もなかった。
いつついたのか、なぜついたのか、どのようにしてついたのか、何も分からない。
けれど、帰る前にロッカーから取り出したランドセルのかぶり(というらしい)の真ん中に、4cmほどの切り傷がついていた。ブラックジャックの顔にある縫い跡のような傷だった。(あれは縫い合わせてあるので実際には違うのだけど、イラストだと似ている気がしたのだ)
それを見つけてしまった時、すごくショックで、頭は真っ白になった。どうしてこんな姿に……なんて戦争か大事故で負傷した家族や友人と再会した人のようなセリフが頭の中を駆け巡った。
しかし、わたしがどれだけ嘆き悲しんでももうそのランドセルが元に戻ることはない。まっさらでつやピカだったころに戻ることはない。
しばらく落ち込んで過ごしていたけれど、そのランドセルと生きていくしかないのだと受け入れるしかなく、これからはもっと大切にすると、益々ランドセルに対して重たい執着を抱いたのだった。

それくらい大切にしていたら高いお金を払い買ってくれた祖父も本望ではないだろうか、などと思ってみるが、祖父がわたしのランドセル姿を見られていたのも2年と半年ほどだった。
赤を押し付けないでいてくれたこと、幼な子の我儘に付き合ってくれたこと、たくさんありがとうと思っている。
学校に行くのは好きではなかったけれど、お気に入りのランドセルを背負うのは好きだった。それは6年間変わらなかった。6年間ちゃんと学校に通えたのはお気に入りのランドセルがあったからのような気もする。
だから、たくさんありがとうと思っている。

そのランドセルは小学校を卒業してからもずっと大切に保管していた。たまに取り出して埃を払ったりして、押し入れの奥に仕舞っていた。
実家を出ることになったとき、極力荷物を減らさなければいけなかった。
もう使うこともない、思い出しか詰まっていないランドセルを持っていく余裕はなかった。
たくさんありがとうを思いながら、永遠にさよならをしてしまった。
今にして思えば、ランドセルくらいは持って来られたような気がする。
今も押入れの奥に仕舞っておけるスペースくらい確保できる。あの時はわからなかったから、仕方がなかった。とはいえ哀しみは残る。

もう祖父もいない、ランドセルも存在しない、写真すら残っていない。
確かに"ローズピンク"だったということはわたしの記憶の中にしか存在しない。
それは嘘でも夢でも記憶の改ざんでもないという証拠はない。
けれど、確かにローズピンクのランドセルは存在した。
もうわたししか覚えていないそのランドセルのことを、わたしが忘れてしまう前に記して残しておきたいと思った。
わたしが忘れてしまうのはまだ何十年も先の話かもしれないけれど、突然命が終わることもあるかもしれない。
確かに存在したのだと、大切に思う気持ちと手放してしまった哀しみと、一緒に過ごしてくれてありがとうという感謝と共に、最後の執着をここに残すことにする。

頂いた応援は執筆の励みにさせて頂きます。