真正性について、考えていました
「ホンモノって何だろうねえ」
そう私に問いかけたのは、日田リベルテの原さんだったか、日置のイラストレーター大寺さんだったか、それとも門司港の映像カメラマン金さんだったか。大寺さんの車内で流れていたキリンジの曲だったか、「面白い人にあげてる」って原さんから毎号もらうフリーマガジンのtempoか(むしろtempoが私の創造の幅を広げてくれてる)、はたまた金さんがおすすめしてくれる永代の活動写真たちか...。
そのどれものような気もするし、彼ら一つ一つの「ホンモノ」の意味するところはどれも違うような気もする。
あれはかみなりのいしを探して鹿児島あたりをさまよっていた、過ぎし5月のこと。まさに雨は毛布のように大荒れの日置を、竹作家の橋口さんとイラストレーターの大寺さんに案内していただいたときだ。
時候の挨拶やら名刺交換やらをすっ飛ばして、大寺さんと最初に交わした言葉を覚えている。
「なんか色々と考えてるようだけど」
「ええ、なんでわかるんですか?!」
よりによって日置市長選とダダ被りのその日、北九州から不要不急なタイミングで雨の中やってきた私のnoteを、「今日はたまたま忙しくってね〜」と大寺さんは苦笑いしながらも、目を通してくれていたのだ。
今更ながら、このnoteを読んでくださっている方に断りを入れておくと、私がこの場をお借りして滔々と書き連ねることは、
「ねえねえ聞いて〜!!!!今日学校でこんなことがあってね!」と
晩御飯の支度をする母を捕まえる在りし日の小学生の自分に若干の社会性を持たせたものだ。大寺さんには、取るに足らない身の上話で自己紹介を済ませてしまった形で、なんだかいたたまれないご挨拶となってしまった。
それから私のnoteを皮切りに、後部座席でおとなしい橋口さん(アロハシャツの模様は依然としてやかましい)をそっちのけて、穏やかな大寺さんの言葉の中で、熱く煮えるものの中心温度まで迫っていた。つもりだったが、きっとあれは大寺さんの外気温で暖をとっていたに過ぎない。「ポルトは、誰でも自由に表現できる場所という側面も持っていて」と私が話した時の大寺さんの表情が、雨打つ車窓より曇っていて気づいた。
美大を卒業後〜イラストレーターとして独立まで、テレビ局でのアルバイトをしながら、仕事終わりの夜更けからずっと作品を描き続けたという大寺さん。時は変わって今は、誰でも自由に何かを生み出して、それをどこの誰でも簡単に見てもらえる。大寺さんがここまで人知れず苦労された20年、30年をすっ飛ばして、新たな作品が次から次へと日の目を浴びていく時代に複雑な胸の内を明かしてくれた。今こうして成功してもなお、手を動かし続けている大寺さんだからこそこみ上げてくる熱に触れて、彼の中心温度なんてきっと恐ろしくて触れられないと悟った。
「ホンモノとは何かを問いただす」ことが
現実味を帯びてきたのはその時だったかもしれない。
じゃあ、ポルトが作る「本物」ってなんだろう。
「本物」の反意語って、この世界に本物じゃないものって、なんだろう。
恐れ多くも言葉にしてみる。
でも、待てよ、そもそも本物である必要ってあるのか。
偽物だって美味しいし、偽物だってそれなりにいいねはつくし。
「ホンモノ」を軸に生活の視点を持つと、言葉に戸惑い、音楽や映像に限りなく近づいて退いた。考えながら掃除して、悩みながらレモンに水をあげた。レモンは結実はおろか花をつける前に急に枯れてしまったが、ついに私の中に正解は出てこなかった。
「リベルテの論文ができたよ!ちょっと難しいけど、読んでみて!」
日田リベルテの原さんがその答えを持っていた。
問いもセットで落っことしてきたけれど。
社交辞令とかすっ飛ばして、単刀直入、問わず語りで核心を突いてくるこの手の方々に形式的な挨拶をちゃんとしたことがないのは、きっと目の前に対峙しているオブジェクト(=私)へめがけた問いかけに、天気や季節とか、社会規範とかいった修飾語をつけるのがまどろっこしいのかもしれない。
原さんが「リベルテの論文」と呼んで私に手渡してくれたのは、
「現代資本主義における地域の持続的発展と真正性の装置としての映画館
-日田シネマテーク・リベルテ(大分県日田市)を事例として-」
その中で筆者 岩本洋一氏(久留米大学経済学部准教授)は「日田のまちに映画館リベルテがある意味」という視点から、リベルテの「真正性」とそれ自身がまちに波及する特別な影響についての解釈を述べている。
「真正性(しんせいせい、オーセンティシティ)」=本物らしさとは
「本物だから本物なんだよ!」といってしまえば簡単な話だけど、
仕事や恋愛といった人間関係のコンテキストに即してもう少し噛み砕いてみたい。それぞれの文脈で「プロの仕事とは何か」とか「本当のパートナーってだれか」とか考えたことのある人なら、何かしら気づかされることがあるのでは。しかし、「リベルテ」という固有の姿形に特化した真正性に触れた論文は、日田の空気を実際に吸った人にしか本当にわからないように、読解力とは別な部分で、巧みに展開されている。
観光という文脈での真正性なら、ググればすでに多くの人が論じている中「地域に根付いた本来の文化」と、「観光のまなざしによって商材へと歪められた文化」とのズレがよく取り沙汰されている。そんな昨今の観光事情で、「本物の文化体験とは何か」について、腑に落ちた考察が論文の中にあった。
真摯にそのまちの文化を伝えようとするホストと、それを全身で受け止めようとするゲストとの間に信頼関係が生まれ、それが「『ほんもの』の経験」として両者の記憶に残ること。
ゲストハウスは何になれるだろう?ゲストのために何ができるだろう?いつまでも彷徨うポルトも、いち文化的装置として自分達の役割を考えてみたい。
果たしてこの「ほんもの」の体験を、私は1ミリの妥協もなくゲストに届けられているだろうか? そしてこれから、門司港で、北九州で、自分の地元で、微力でも伝播できるだろうか。届けるということは、同時に受け入れるということだ。
価値観が簡単にひっくり返ってしまう世の中を私たちは抗うこともあきらめることもない。「本物だけが残っていく」という淘汰の過程を目の当たりにしているのだと信じたい。相対評価をきらいながら、かといってまだまだ個として影響力もない私は、嘘偽りのないことを粛々と形にしていくしか生きる道はないのだと思う。お金もないしお先も真っ暗だけど、嘘ばっかりの世界に塞がれていっぱいいっぱいになってしまった時の避難場所ならたくさん持っている。それは大自然の色香、文化芸術の手触りで、そこに時間とお金を惜しまないこと。全力で幸せをいだくこと。北九州のまちで私が教わったことは、ただの処世術なんかじゃない。
さらに深くシャベルを突きつけると、「本物」をめぐる思考の右往左往は、今実在するものにとどまらない。
去年の秋だったか、映像カメラマンの金さんから、「さくらちゃんに紹介したい人がいる!」という出だしで始まるメッセージが届いた。
はて、いつから金さんは縁談を持ちかけてくる近所のおいちゃんになったのだろう。
「誠に申し訳ないのですが、ただいまオフシーズンのため、彼氏は今の所募集しておりません。募集再開しましたら告知いたします」と返信するつもりだった。首を傾げながらメッセージを開いてみたら、「成瀬巳喜男の「放浪記」を小倉昭和館でやってるから観てみて!」というオススメ映画の情報だった。放浪記といえば、林芙美子。そういや記念館が門司港駅の目の前にあるが、ゲストには特に案内することもなく、3年が過ぎようとしている。その次の休日はごく自然に足が小倉へと向いていて、いつにも増して年齢層が高い昭和館で放浪記を見た。高峰秀子演じる林芙美子、林芙美子演じる高峰秀子、ああどっちだったか、わからなくなるくらいに彼女の人間味にまんまと打ちのめされ、上映後も劇場で一人のぼせていた。10分後くらいに始まる次作の上映でざわつく劇場内で、しばらくスクリーンの中にいるような気持ちに浸っていた。結局これが、2021年に私が観た最後の映画になってしまった。もしくは、それ以降に観た映画を覚えていないだけかもしれないが、覚えていないということはそういうことなのだろう。
「おー、観てくれたか!成瀬は恋に溺れる女の描写が得意なんだ。彼と長野さくらをつなげたかったんだよ〜」と、なぜか金さんも嬉しそうだった。
同じ時代を生きたこともないのに、成瀬巳喜男とは確かに、高校時代に同じグループでお弁当を一緒に食べるくらいの仲だった気がする。だなんて、林芙美子記念館に行ったこともないのによく言えたものだ。
そういえば、リベルテの原さんも「友達って、そばにいなくても、なんなら会った事なくてもいいんだ。ぼくらは友達同士肩を組んでるイメージでリベルテをやってる」とよく話していたなあ。無形でも、今はない存在であっても、「ホンモノ」との関係は築きあげられる。まだいまいち使いこなせていない、この「真正性」とは、大変な時代で、しなやかに揺らぎながら芯を貫き続けるキーワードになりうる。「真正性」を物差しの一つとして見るのと見ないのとでは、なじみの街でも、赤の他人でも、潜れる深さが全然違う。
誰も精査する暇のない当たり前が含む矛盾や、些細な違和感をどうしても言語化できなかった幼き頃の私は、台所で洗い物をする母を始め周囲の大人たちにモヤっとボールをぶん投げて困らせてばかりいた。
「何言ってんだ、お前は本当に変なやつだな」と一蹴されるときもあれば、
「それはつまり...」と丁寧に受け止めてくれてもその答えがピンと来ないと、投球するくせに相手からの返球を待たずして、ルール無視して気づけば勝手に出塁していた。そんな大人たちに呆れられたり、怒られて反抗して疎遠になった後で、ある日突然、あ、あの人が言ってたことってもしかしてこのこと…!?と合点がいく。言葉の意味は、咀嚼してすぐに消化できなくても、お腹の中で発酵させると本物になっていくものかも。2022年の排泄運動には、新たな兆しが見え始めている。