ベンジャミンバロックを預かってる話
タンガテーブルの玄関先でくるくると葉を巻いていたこの人は今、ポルトの窓際で相変わらずすこやかに枝葉を伸ばしています。タンガテーブル休館中、面倒を見る人がいなくなってしまったので、やむなくポルトへ転勤。無謀な鉢替えにも幾度もの引っ越しにも必死で耐えてくれています。この人がまた元気な姿で、非日常の入り口でたくさんの人を迎えられるようにと大事に預かっていましたが、もうそろそろ古巣へ帰るころ。宿を休業していた3ヶ月と少し、かつてなく寂しい時期を一緒に過ごしてきたので、別れは少し名残惜しい。
一方私たちはと言いますと、マスクで笑顔を隠しながらぎこちなく宿を再開してしばらく経ちました。調子はどうと聞かれたら、笑えるくらいに静かです。やっと笑えるくらいには気持ちが落ち着いてきたのかもしれません。
こうしていま起こっているこの物質的な隔たりが、本当に大切なことを透かしているような気がしてなりません。
私の仕事って、私の存在って、世界に必要とされているのかな。
医療崩壊より経済活動の停滞より、一番恐ろしいのは、自分の存在の意味を揺るがされることではないでしょうか。
けれど、不安でも辛くてもまずは自分を満たしてあげたい。
自分が幸せでいないと、他人に幸せを与えることはできないと思っています。中にはごくまれに、無限のサービス精神が備わっている特殊能力者もいますが...緑だって花だって、やっぱり水とお日様があって初めて人々を癒すから。
本を読んで、映画を見て、誰かの視線に立って考えたり、
身に付けるもの、口に入れるものを自分で選び、作って、自分で自分を構成する。感動の感度を高めることは、どんな苦しい道でも幸せを見つけられるようになることだと思います。
ほんのつい最近までは、幸せはいつも誰かの不幸の上に寝そべっているものだと思っていたけれど、
「自分が幸せでいることが、どこかの誰かを幸せにする」
こんな幸せもあっていいのだと、少しずつ信じられるようにもなってきました。
withコロナと言うより、in地球、という概念が私にはしっくりきていて、所詮人間は、原子の集合体でありピラミッドの一部でしかないと感じざるをえない日々です。
そういえば、喪主より泣きじゃくって、経を読めないくらいには長年お世話になっているお寺のお坊さんも似たようなことを言っていたなあ。肉体が消えて初めて、人間は仏様となり、この世の苦しみをとりのぞき光をもたらすと。肉体がある限り人間はたんなる動物の一種でしかないのだと。泥酔して勝手に家に上がり、誰も頼んでないのに突然経を唱え始めていた近所のお坊さんはすでに生き仏のような気がするが、この話が本当なら、きっと私たちは生きてる限り、世界を自在に操ることは不可能だ。そんな明日をもしれぬ私たちだからこそ、今この瞬間に大切なものを大切にしなくては。
大きな自然の前では、ベンジャミンバロックも、私も同じちっぽけな存在だと、惜しまれつつも過ぎゆく夏に手を振ります。