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今日も映画は何も教えてくれない


それがなんなのか形容すらできないけれど、
その瞬間、その場所で生きる彼らにしかできない表現、
例えば60年代なら60年代にしか、社会活動家なら社会活動家にしか、アメリカならアメリカにしか、韓国なら韓国にしか見せることのできない世界に引きずり込まれたい!これが映画館に足を運ぶ理由の一つだ。鑑賞後の余韻に浮かんだままの足で外の空気を吸う。家路へ急ぐこともあるし、気が向いたらそのまま銭湯に行くこともある。人は右から左へ行き交い、おなかをすかせる煙がそこかしこで立ち上る、いつもの小倉のまちが、今の私には違って見える。自分が足をつけて歩くまちなのに、実話を基にしたフィクション!のようにも、実写化不可能と言われていたあの不朽の名作!のようにも感じる。この感覚の面白さが、映画館に行く理由の二つ目だ。

夏時間を観終わった。

物語は10代の少女、オクジュの眼に映る世界を中心に描かれている。私たちは日本語字幕と映像が伝えるシンプルな情報だけで、彼女の家族構成や過去の背景を想像せざるをえない。でもたしかに私は、韓国のとあるまちに暮らす、ある家族のひと夏を、一番近くで覗き見た。「ご飯は食べた?」「何か作ろうか」オクジュの父と叔母は、その場を取り繕うように、場面の空白を埋め合わせるように食事の支度をする。劇中の、その食事を囲むシーンの多いこと。鉄箸がかちゃかちゃと忙しく音を立てるのと対照的に、オクジュと彼女の弟ドンジュが目にする夏休みは、ひたすらおだやかで美しいポージングを決めている。彼らは日当たりの良い素敵なお屋敷で、おじいちゃんと一緒にひと夏を過ごす。その家に燦々と照らす夏の陽は、まさしく家主であるおじいちゃんのように、うんともすんとも言わないで、ただ登っては沈む。ちなみにこの家は実際の家主が家丸ごと、家具や小物も一式そのまま撮影用に提供したという。物語の展開のアップダウンに、素人は雨が降るとか虹が出るとかの天気の急変や、BGMを使う手段を考えがちだけれど、ひんやりと虚しさを残す昼間、あたたかみがこぼれる夜を演出しているのはこの家で、同時に巧みな演者でもあるということだ。本来は民家だということを頭に入れていても、お家にお邪魔するためだけでも韓国に行く理由があると思う。

周囲の身勝手な大人に納得がいかないのに、大人になれない自分に対して苛立ったり。オクジュは自分の笑顔に、涙に、動揺に、彼女自身も理由をつけられない。言語の壁を越えた、というより、言語化すらできない感情がそこにはあり、オクジュの視点は、そっくりそのまま作り手の視点のように感じられた。多感で繊細なオクジュの表情が、絶妙なアシンメトリーの構図の中で揺れている。私たちそれぞれの夏休みとちょうど重なる部分もあれば、透けて見える部分もある。

いいなと思う映画は、決して向こうからは答えを教えてくれなくて、
今日も私に、ただ沢山の問いを残して終わる。

 "Moving On"という原題が全てを物語るのだけれど、
夏休みは終わっても、日々は続いていくのだ。
夏が終わるもの悲しさとやるせなさを抱いて、彼らは私たちの代わりに泣いてくれた。彼らそれぞれの涙の理由を深く突き詰めることが、きっとオクジュから観客へのメッセージだと、ラストシーンに思った。
夕方6時に劇場を出た後、小倉の陽はまだ高かった。
完全に夏が終わった気でいた。

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