絵に描けるものの全て。
西加奈子さんの「さくら」を手に取ったのは、
小学5年生のときだったと思う。
当時、私は親戚のおばちゃんと、それぞれが選書した本の貸し借りをしていた。その時、母の本棚にコンプリートされている五木寛之のエッセイ集を選んで差し出したかわりに、おばちゃんから借りたのがこの本だった。
活字には多少の免疫がついていたものの、当時の私には鮮烈だった官能に圧倒され、登場人物のやることなすことがいまいち頭に入ってこなかった。
なので、12年ぶりくらいにこの作品を観た昨日も、
正直全部の意味をわかることはできなかったけれど
なんというか、全部を超えてわかることはできたのではないかと思う。
こんなにもありふれた家庭生活を体験したことはないし、
こんなになまめかしく、分かりやすく痛々しい青春を送ったことはない。
彼らの過ごした幼少期や思春期へ、ある程度の共感と違和感を行ったり来たりさせながら、主人公の薫の一人称にふいに気持ちをすくいとられるようになっただけでも、大人になったといえるのかもしれない。
!以下は結末に若干触れます!
あらすじを簡単に説明すると
一家が大切に育ててきた、さくらという犬を通して、どこにでもある幸せな家族の破綻と再生が…と続けたいところだが、
そもそも彼らの幸せに対して疑いの余地はなかったのか、
では、何が誰にとっての幸せなのか、という問いにぶちあたってしまいその先が出てこない。
ラストの家族とのつながりを再認識させるシーンには、心を満たされかけるが、依然として一人一人の闇を拭いきらないままに椎名林檎が歌い始めるので、個体としての家族の脆さの部分に焦点をぐいと引き戻されたまま映画は終わる。
絵に描いたような家族、みたいに、
誰しもにとって形として捉えられる存在のなかで
描ききれない細部や機微を言葉で表すのが文章の役割であれば
映画の「さくら」には、映像として飛び込んでくる情報と、語りの一語一句、その行間でしか読み取れない部分に深い溝があり、そのちょうど隙間に問いを落としていた。今の私には拾うのが難しい。
客席の一人一人の心臓の奥に問いかけるような、昔の引き出しをそろりと開けられるようなこの映画の後味を、
甘いという人もいれば、辛いという人もいるだろう。
味の感想は大きく分かれるだろうし、もしかしたら、もう一度見ると味が変わるかもしれない。
大街道のシネマルナティックでやってた、とあるベトナム映画に、
一人で声をあげて泣いて以来、じつに4ヶ月ぶりにちゃんと映画を観た。
毎回思うのだけど、映画代1400円は決して安くはないし、(安いか高いかは、自分が作品に対して感じる価値次第だけど)、バス代と、都会へ繰り出す気合いと、何よりも尊い休日を費やして映画を観るのだから、味がわからなくなるくらいまで咀嚼するべきだ。だから、これからも映画館ではしっかり泣いて、笑って、深く深く考察していこうと思う。