いまここで、声をあげること
やる人いないからやってるわけであって、言う人いないから言ってるだけであって、誰かやってくれる人がいるならやってよ、と思うし、本当はこんなこと書かないでいいなら書きたくない。いつもちょっとした野暮用やふとした興味本位から始まったものが、だいたい私の運のツキだったりする。
床数をかなり減らして、朝食もやめて、おせっかいを焼き続けるスタイルでポルトの営業を続けて1年くらい経つ。(と言っても稼働日はほんのわずか。)相手数が減ると一人一人とゆっくり話す時間も増える。そうするとやはりここに集まる面白い人は際限なく面白くて、彼ら一つ一つの思想のサンプルの採取と研究に夢中になってしまう。思考の根底に沈む原液は、良くも悪くも度数が高い。話せば話すほど相手への知識・理解は増える一方、関心・意欲・態度がついてこないときもあって、ストレートで浴びると数日間しばらく胸焼けがした。私たちが普段、名刺やSNSを交換したり、カウンター越しに小一時間話す程度で触れあう他人は、水で希釈して薄まった状態でその価値観を取り込んでいるに過ぎないのだ。
大学在学中に、観光というキーワードを考える中で、日本を訪れたり暮らしている外国人にどこまでも寄り添うには、まずは自分がalien(外国人)の視点で、マイノリティを体感したいと強く思っていた。その中でもワーホリを選んだのは、学部留学ができるほど英語が上手くなかったという消去法がまず一つ、そして限りなく日本から離れた場所で、日本という文化の中にいる自分の存在を考えたかったからかもしれない。
ひょこひょことアイルランドへ旅立ち、いろんなまちを転々とするうちに私が出会ったのが、公民館と宿の機能が融合したパブ(Public House)、という場所だった。人々は歌っても踊ってもいいし、飲んでも飲まなくてもいい。話したければ勝手に話し、何も用事がなくても来て良いし、旅の途中なら泊まっていきなよ、(ちなみに宿代は割と高い。)といった具合だ。
私はそこで、まちと溶け合う宿、非日常の延長に待つ日常、いかなる文脈も受け入れる宿主、宿の持ついろんな側面に観光の概念をくつがえされて、今に至る。注目したいのは、アイルランドに生きる彼らは、こんな感動的な毎日を当たり前のようにビール片手に営んでいて、「取るに足らねえfuckな人生さ。お前だってそんなもんだろ」と、ヘラヘラと話しているのだ。誰に対しても分け隔てなく冷たい風、陽の差す余地もなく分厚い雲のもと、飲んで泣いて怒られ続け、可能性を考え続ける中で、人の暖かさとわずかな晴れ間の尊さを知った。
私のヨーロッパ大航海時代(2016-2017)から、プライベートとパブリックの境目をウロウロしてはや5年が過ぎた。眠るのが心の底から惜しい夜も、何周しても分かり合えずやるせない朝も経験して、ここで起こる化学反応が自分の体内に刻まれている。どうせ先のことは見えないので、なるべく手探りでその感覚を頼りに、絶妙な筆圧でイメージを描けば、日本中、地球上のどこにいても、パブを作り続けたいし、そこで起きるクラック(Craic)を浴びては放出したい。
Sleeve Bloomで行われているライブミュージックは、今週も観客のじいちゃんが奏者を無視して勝手に歌い出しているだろうし、きっとCashelHostelのジェシーは明日の朝もジプシーたちの滞納してる宿代をもらいにいく。私はといえば、和室で飲んでるおじいちゃんに30秒に一度呼びかけられ全然仕事が進まない。この瞬間にも巻き起こっているハプニングに、今日も明日も、何十年先も、当の私が一番驚き、泣いて、そしていろんなことに気付かされるのだろう。
完成させたい未来もないし、掘り返す過去もない、
ただ終わりのないものを作り続ける日々がそこにあって、
今日も明日も死ぬまでゲストハウスが好きだ。
ばあちゃんが作るあり合わせのご飯だって、ここにあつまる人々の織りなす空気だって、今の言葉で言うとインスタレーションとブリコラージュ。総合芸術が日常のそこかしこにあふれていることに気づかせてくれるからゲストハウスは、シアターやギャラリーに匹敵するような、旅の舞台装置だと思う。人類みなアーティスト。