「ポジティブな自責」の大切さ~平成の「誠意大将軍」に思いを馳せる~

前回「説明力」について書いたところ、「小室文書に触れるのかと思った」とのコメントを友人から頂戴したので、よい機会だと捉えてこれまで漠然と思っていたことを整理してみたい。

■「説明力」については拍子抜け

「説明力」に必要なものは一貫性である……

みたいなことを書くつもりで準備していたところ、突然の「解決金」問題の浮上。これで一貫性のなさは明らかになったので、「説明力」と結びつけて語るまでもないだろう。

村上春樹の小説(特に「三部作」の頃)の主人公ならば、「やれやれ……」と深いため息をつくにちがいない状況である。

「やれやれ……」

■ 新入社員研修で話したこと

同じ時期、いくつかの新入社員研修に講師として登壇していた。

あるコンテンツに「自責で考えることが大事」との記載があり、内容自体はまったくそのとおりなのだが、新入社員へのメッセージとして見たときに、「ややトーンが強いのでは?」との懸念が一部の関係者から示された。

そこで私は、「ポジティブな自責」という表現を用いることにした。

「自分が悪い」「自分はダメだ」と自分を責めるのではなく、
「もっとできたことがあるのでは」「もっとよくするにはどうすべきか」、改善を目指して前向きに「自分事」として捉える。

そのような「自責」であれば、新入社員にとっても悪くはない。

キラキラした彼ら/彼女らにどこまで伝わったのか、確かめる術がないのは残念なところだが、「理解してくださる方が1人でもいらっしゃいましたら幸いです」といったところだろうか。

■「小室文書」に欠けているもの

ここでは、4月8日公開された文書を「小室文書」と呼ぶことにする。

念のために書いておくと、「事実」関係については、当事者ではない私には確かめようもないので触れないことにする。

もっとも、私を含め多くの方が望んでいたものは、「何が真実か」ではなく「誠実に対処する姿勢を示すこと」ではなかったか、と感じていることは、これも一応ではあるが記載しておきたいと思う。

実際に起こった出来事を「事実」、そこに当事者の解釈が込められたものを「真実」という使い分けは、法的な文書にかぎらず一般的な文書においてもよく見られるものであり、ここでもそれを踏襲する。

その観点から分析するならば、「小室文書」が4万字をかけて行ったのは「真実」についての一方的な説明であり、それは決して「事実」を解明する力を持ち得ないだろう。

ひとつの「事実」には複数の「真実」が存在し得るということ。

それは法律家であれば(別に法律家ではなくてもそうなのだけれど)当然に知っておくべきことであり、だからこそ「事実」と「真実」とを切り分け、証拠を示すことにより「真実」が「事実」であることを主張すべきところ、ただの私見に論理の衣をまとわせ「真実」の披露を長々と続けている点に、私は最大の違和感を覚えた。

「真実」を「事実」として主張するのは自由だが、そこに証拠がなければ、「真実」が「事実」へと昇華することは極めて困難である。

証拠と呼べるだけのものを、私は残念ながら見出だすことができなかった。

さらに「小室文書」には、「事実」以外にも欠けているものがある。まさにそれこそが、新入社員に研修で伝えた「ポジティブな自責」に他ならない。

■ 平成の皇室が示されたもの

やや視点が飛躍してしまうが、一連の騒動を見聞きするなかでいつも思いを馳せるのが平成の皇室に対してだ。

上皇陛下と上皇后陛下、そして今上陛下が中心となり、阪神淡路大震災から東日本大震災、熊本地震など多くの自然災害の折に、国民に寄り添う姿勢を全身で示してこられたのが平成の皇室だと私は理解している。

言葉が選びが不適切である点を承知のうえでいうならば、そこには明らかに「ポジティブな自責」の姿勢が体現されていた。

「今、国民のために、自分たちにできることは何か」

そのことをだけを考えながら、御身をもって「自分事」としてのお気持ちをお示しになる姿には、私のような不敬の徒であっても、胸を打たれることが少なくはなかった。

いやしくも皇室と関わるのであれば、「ポジティブな自責」の姿勢を示し、相手を責めたり説き伏せたりするのではなく、そもそも金銭をめぐる問題が生じたという「事実」に思いを致すこと。

そして、「自分事」として真摯な態度で問題解決に取り組むこと。

それこそが、今上陛下や秋篠宮皇嗣の求めていたことではなかったのか。
婚約の成立に向け、多くの国民の理解を得る一番の方法ではなかったのか。

言い忘れていたが、遺族年金不正受給の問題など、一家をめぐる他の問題がまだまだ存在することも国民は忘れていない。

それらについての説明はいつかなされるのだろうか。

■ そして思い出す平成の「誠意大将軍」

平成の皇室に触れた以上、平成の「誠意大将軍」にも触れておきたい。
(不謹慎で本当にすみません。)

故・梅宮辰夫パパが存命であったら、一連の騒動について一体どんなことを感じたのだろうか。

「稀代の悪党」とでも一喝してくれただろうか。

これはあくまで経験則だが、ダメな男に骨抜きにされたお嬢様に効く薬は、「実際に痛い目に遭ってみる」ということ以外にはない。

それがわかっていて公に口にできない……だけではなく、リアルに痛い目に遭っては困る方々にとっては何の薬にもならない話だとは思うのだけれど、実際そうなのだから仕方がないし、おそらくその分だけ始末が悪いことも、今から容易に想像することができる。

だからこその「やれやれ……」なのである。

■ 令和の「名誉顧問(弁護士)」への危惧

さて、時代はすでに令和であり、令和の皇室について考えてみる。

何より残念なのは、「ポジティブな自責」の伝統が断絶するのではないか、そんな予感に満ち満ちている点である。

民事への介入可能性も含めて、危うさ満載の今日この頃。

もしかしたらご本人には「皇室に生まれたくて生まれたんじゃない」という思いもあるのかもしれないが、コロナ禍に喘ぎながら日々の暮らしに必死な国民にそんなことを1ミリでも感じさせてしまった時点で、はるかに大きな何かが崩れてしまうのでは、との危惧を抱かざるを得ない。

明らかに「たられば」ではあるが、令和の「名誉顧問(弁護士)」みたいな
揶揄を受けないためにも打つべき手はもっと他にあったように思うのだが、現実的にはもはや、リカバリーはかなり難しいだろう。

それでも、ご成婚をしない理由はないと、事は進んでいくのではないか。
他人に結婚を止める権利などないのだから、当然といえば当然ともいえる。

そうなると俄然、私には嘆く以外の術が思いつかない。

あるいは、「ポジティブな自責」を大切にしようという教訓を自分自身にも言い聞かせることくらいしか、悲しいかな思いが及ばない。

まったくもって、「やれやれ……」である。


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