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日本人の「言語技術」(Wedge11月号より)

コンビニエンスストアで手に取った雑誌「Wedge」11月号の一つの記事に興味をひかれた。

タイトルは、『「察する」から「伝える」へ言語技術で日本人の存在感を高めよ』。
・欧米では国語をスキル(技術)として学んでいる
・外国人がプレゼンや交渉が上手なのは、ランゲージアーツ(言語技術)を教えてもらっているから。
・言語は違っても、いわばOSのような共通プラットフォームがある。

自分の考えや意思を伝えたり、相手の考えや意思を理解するためには、それなりの技術が必要らしい。ところが、自身の学生時代を振り返ってもそんなことを学んだ記憶がない。なぜか?

この記事でも指摘しているが、日本人の会話は「以心伝心」ともいうように、受け手が話し手の意向を「察する」ことが多い、「高コンテクスト(コミュニケーションや意思疎通を図るときに、前提となる文脈(言語や価値観、考え方など)が非常に近い状態のこと)」になっている。そのことが、敢えて言語技術を学ぶ重要性を感じなかった根拠と推測する。

一方で、欧米などのように言語、慣習が異なる民族が混じり合うところでは、「低コンテクスト」、言葉にしてきちんと説明(言語化)をすることが必要になる。

ここまでは、概ね記事に記載されているとおりかと思うが、近年の日本では、地方から都会への人口集中が続き、異民族ほどではないが、習慣や背景が異なる人たちとのやり取りも増えてきている。そのような環境では、「以心伝心」を期待する前に、誤解を招かぬように「言語化」する能力を身に着けることが必要と思うが、事態は反対の方向に向かっているような懸念もある。

例を挙げると、「業界用語(学術用語も含む)」、「若者言葉」、「外来語(というより外国語の単語そのもの)」。
その言葉を理解できる、またはその言葉に対する「イメージ」を「共有」できる(正確に理解してはいなくとも)間柄でしか通用しないことで良しとしている。「言語化」とは対極の位置にいるように思える。

自身が身を置く範囲で意思が通じれば事足れりとするのであれば、それでもいいだろうが、海外の異なる文化、背景を持つ人たちと戦っていくためには、自身の考えを「言語化」する能力は欠かせない。それとも、日本人は海外との関わりを断って再び鎖国の道を選ぶのだろうか。


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