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坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて④

坂本龍一の海外ミュージシャンとの交流

前節では1984~1988までを振り返ってみたが、一度ここで視点を改めよう。

近藤等則は、YMOがデビューした1978年にはNYに一時的に移住、NYのアヴァンギャルドな音楽家と交流し、1981年にはビル・ラズウェルとアルバムを制作している。1984年には、ビル・ラズウェルをミキサーに迎え、自身のバンド、IMAで『大変』をレコーディング、1986年にはビル・ラズウェルのプロデュースで同バンドのアルバム『混沌』をリリースするなど、坂本龍一よりも早い時期にビル・ラズウェルと共演している。

これを踏まえると、海外ミュージシャンとのコラボレーションは、坂本龍一より近藤等則の方が先行していたかのような印象を受けるが、けっしてそのようなことはない。

YMOで活動していた当初より坂本は海外ミュージシャンとのコラボレーションには積極的であったし、ビル・ラズウェルやアート・リンゼイなどNYのアンダーグラウンドシーンで活躍する音楽家と接近する局面も見られたのである。

本節では、坂本龍一のソロ活動に焦点を絞って、ビル・ラズウェルとの共同プロデュース『NEO GEO』に至るまでの道のりを、坂本と外国アーティストとの交流として視点で辿っていくこことしたい。

『NEO GEO』までの道のり

まずは『NEO GEO』リリースまでの坂本龍一のソロアルバムを時系列に列挙しよう。

  • 千のナイフ(1978年10月25日)

  • B-2 UNIT(1980年9月21日)

  • 左うでの夢(1981年10月5日)

  • 音楽図鑑(1984年10月24日)

  • Espereato(1985年10月5日)

  • 未来派野郎(1986年4月21日)

  • NEO GEO(1987年7月1日)

1stアルバムの『千のナイフ』は、1977年9月8日に坂本龍一のマネージャー生田朗と、日本コロムビアの担当ディレクターであった斎藤有弘との打ち合わせが行われ、素材づくりのためのレコーディング(1978年1月17日~同年1月27日)を経て、1978年4月10日から同年7月20日まで、コロムビアの主に第4スタジオでレコーディングされている。

『千のナイフ』は1978年10月25日にリリースされるが、YMOの1stアルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』も、ちょうど1か月後の1978年11月25日に発売されている。

YMOの結成は1978年2月19日に、細野晴臣が自宅に坂本龍一と高橋幸宏を招いて結成された とされており、1stアルバム『イエロー・マジック・オーケストラ』は、1978年7月10日から同年9月5日までアルファレコードのStudio "A"でレコーディングされている。

これを踏まえると、『千のナイフ』のレコーディングが終わる頃に、『イエロー・マジック・オーケストラ』のレコーディングが始まっていたことが窺える。

当時の坂本は、日中はスタジオ・ミュージシャンの仕事をして、夜から明け方までを自身のソロアルバムの制作時間に充ていた。

レコーディングに参加したミュージシャンも、YMOを結成する細野晴臣や高橋幸宏、当時からスタジオミュージシャンの仕事を通じて交流のあった山下達郎や、現代音楽のつながりとして高橋悠治が参加している。

さらに、坂本龍一がレコーディングに参加し、『千のナイフ』リリースのきっかけになった『Olive's Step』(1977年)を、同じく日本コロムビアよりリリースした渡辺香津美(YMOのワールドツアーにもギタリストとして参加)など、豪華かつ多彩な顔ぶれではある。当時の坂本龍一周辺のミュージシャンを中心に制作されており、当然のことながら海外のミュージシャンは参加していない。

国内でのスタジオ・ミュージシャンの延長としてソロアルバムを制作することになった坂本龍一であるが、これより以前に海外に進出するチャンスがあったのも事実である。

それは、1975年には、ピーター・ブルック・カンパニーに属する日本人俳優、笈田ヨシ(笈田勝弘)が、欧米で上演するパーフォーマンス音楽を坂本龍一に依頼しているからである。

しかし坂本は、大滝詠一のレコーディング参加や、シュガーベイブのコンサート出演など、国内でのポップス活動を優先して、このオファーを断っている。

坂本龍一が日本に留まったことによって、坂本の代わりにオファーを受けて海外へ行った土取利行との『ディスアポイントメント-ハテルマ』(1976年)が制作されることになった他、ソロアルバム『千のナイフ』(1978年)のレコーディング、そしてYMOの参加へと繋がっていったのである。

1978年、ジャマイカでのNEO GEOの原初的体験

それでは坂本の初めての海外レコーディングはいつなのだろうか。
坂本は1978年11月に加藤和彦がプロデュースした野田テレサの『トロピカル・ラブ』のレコーディングで、ジャマイカ、ロサンゼルス、マイアミに行っている。これは坂本龍一にとっての初めての海外体験となった。

このジャマイカでのレコーディングについて、坂本龍一は以下のように述懐している。

生まれて初めての海外旅行でジャマイカのキングストンに着いて飛行機から降りた瞬間からものすごいカルチャー・ショックの連続。経由地のロスアンジェルスやマイアミではとくにショックはなかったのに対し、キングストンでは街の風景にも文化にも大きなショックを受けることの連続でした。
(中略)
 もうひとつカルチャー・ショックだったのはジャマイカの食べ物の味。それがやはりアメリカや日本とはちがう味を感じた。地理的に近いアメリカではなく、アフリカを感じたんです。
そのときはもちろんアフリカに行ったことがないのに、「ここはアフリカの文化圈なんだ!」って強烈に思った。逆に言うと、日本がいかにアメリカに近いかってことも感じました。

Year Book 1971-1979

現地の食べ物を食べた際、地理的に近いアメリカではなく、行ったこともないアフリカを感じたというのだ。

ここで今一度、坂本龍一による『NEO GEO』のコメントを引用してみよう。

ネオジェオという建築のムーブメントがあるという記事を読んで、Neo Geographyということだと僕が勝手に解釈し、面白いなと思いました。実際の地理的な位置関係と、日々暮らしている感覚的な「Distance(遠さ)」というのはずいぶん違うなと。

『ONBEAT』 (2023年5月号) P.31

初の海外旅行となったジャマイカでのレコーディングは、後に坂本がNEO GEOについて回想するときに語った、地理的距離感と心理的距離感のねじれを体験する重要なものとなったと指摘できるだろう。これは「NEO GEOの原初的体験」であると言えるのではないか。

しかし、このときの経験が、本格的にアルバムとして具現化されるのは、1987年の『NEO GEO』まで待たなければならない。

次節では引き続き、坂本龍一の海外ミュージシャンとの交流や、海外音楽シーンとの関わり方について検証していきたい。

参考文献

  1. 『千のナイフ』(2016年版)ライナーノーツ

  2. 吉村栄一『YMO 1978-2043』、19p

  3. 藤井丈司『YMOのONGAKU』、43p

  4. 『ディスアポイントメント-ハテルマ』ライナーノーツ

  5. 『Player』(1979年2月号)136p-137p

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