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坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて②

坂本龍一とビル・ラズウェルをつなぐ近藤等則、そして生田朗

前節では、坂本龍一とビル・ラズウェルが出会ったきっかけは、1984年に近藤等則が主催した「東京ミーティング1984」であると言及した。このイベントで、坂本龍一はビル・ラズウェルと共演を果たし、坂本龍一のマネージメントを担当した生田朗を介して、本格的に関係を深めていくことにになる。

それでは、近藤等則とビル・ラズウェルはどのように出会ったのだろうか。そして、近藤等則と坂本龍一にはどのような関係性があったのだろうか。

本節では近藤等則の活動を焦点をあて、上記2点を解明していくことで、『NEO GEO』の成り立ちについて検証していきたい。

まずは近藤等則の活動について、本人が残した履歴書を参照して、概略を説明したい。

1948年生まれのトランペット奏者である近藤は、大学卒業の1972年にパーカッショニストの土取利行と上京し、「ピットイン・ティールーム」でフリージャズを中心とした音楽活動を展開する。

坂本龍一は、近藤と共に音楽を活動をしていた土取利行とのデュオで『ディスアポイントメント - ハテルマ』を1975年の夏に録音し、翌年にリリースしている。

このアルバムは当時両者と親交のあった竹田賢一の発案によるもので、土取利行が海外で活動する劇団の音楽を担当し、日本を離れることになったことを契機に制作された作品である。

元々は坂本龍一へのオファーであったが、坂本が断ったことから、土取が海外へ行き、『ディスアポイントメント - ハテルマ』が生まれたのである。

フランスのピーター・ブルック・カンパニーに属する日本人俳優、笈田ヨシ(笈田勝弘)が、日本人の武道家を集めて『般若心経』という演劇を計画し、その音楽の依頼が父親経由で坂本のところにやってきた。しかし、長期に日本を離れることより、いろいろ広がり始めた国内での音楽活動を選び、むしろこの仕事は土取に向いているのでは、と代わりに紹介したのだ。

竹田賢一『ディスアポイントメント-ハテルマ ライナーノーツ』

近藤等則も1976年にリリースされた浅川マキの『灯ともし頃 MAKI VII』で、坂本龍一とも共演しているほか、1984年リリースの坂本龍一の『音楽図鑑』ではレコーディングに参加。アルバム中の「Paradise Lost」や「マ・メール・ロワ」でトランペットを演奏している。

このような経緯を踏まえれば、1984年に企画された近藤のイベントに坂本龍一が出演するのも当然の成り行きと言えるだろう。

YMOデビュー前の坂本は、1976年に近藤と浅川マキのレコーディングで共演し、その後はYMO散開後の初アルバムとなる1984年の『音楽図鑑』で再び共演を果たしたということである。

YMOデビュー以前の坂本は、ポップスのアレンジャーをやりながらも、現代音楽とフリージャズが交錯させることで、両者を解体し、新しい音楽を生み出そうとしていたようである。

僕はポップスのアレンジャーもやったし、スタジオでピアノも弾いたし、それからフリー・ジャズなんかを阿部薫たちとやったりとか、いろんなことをやってきた。

『EV.Café 超進化論』

フリー・ジャズの阿部薫とは、何度かセッションをしていました。ジャズの前衛とクラシックの前衛には、共有できるものがあった。それぞれに既存のものを解体し、新しいものを生み出せるという予感のようなもの。

『音楽は自由にする』

近藤も坂本の音楽活動と交わりあうような場所にいたと考えられるので、両者の共演は、ある意味では必然的であったとも言える。

その他に坂本は、親交のあった竹田賢一を介することで、近藤と共に上京してきた土取との共作で『ディスアポイントメント - ハテルマ』を1976年に発表している。

しかし坂本と近藤の交流はいちど途絶える。それは坂本が1978年にYMOでデビューしたことと無関係ではないだろう。YMOの散開を待っていたかのように、翌年の1984年、近藤主催イベント「東京ミーティング1984」に坂本が出演、同年リリースの坂本ソロアルバム『音楽図鑑』のレコーディングに近藤が参加する。

YMOを回避するかのように、両者の音楽は再び交錯したのである。

本節の冒頭で疑問として提示した「近藤等則と坂本龍一の関係性」について、ひとつの回答を導き出すとすれば、坂本と近藤は元々は同じフィールドで音楽活動していたということである。YMOでの活動を経て、坂本が近藤主催のイベントに参加したのは、インプロビゼーションが坂本にとって原点のひとつであった証左であろう。

NYのアンダーグラウンドシーンと近藤等則

前節では坂本龍一は現代音楽を、近藤等則はフリージャズを手掛かりに、インプロビゼーションを共通言語として、同じ音楽シーンにいたということを明らかにした。

更なるコラボレーションの可能性も開かれていたように思えるが、1978年のYMOデビューによって状況は一変し、YMO散開後は近藤主催のインプロビゼーションのイベントに坂本が出演し、ビル・ラズウェルとも共演を果たす。これを契機にマネージメントの生田朗が、ビル・ラズウェルと坂本の間に媒介することによって、『NEO GEO』の制作に繋がっていったのである。

それではYMO活動期(1978年~1983年)に、近藤等則はどのような音楽を展開していたのだろうか。「自筆履歴書」を参照して近藤の活動を綿密に辿っていくことで、本節では冒頭に提示したもう一つの疑問、近藤等則がどのようにしてビル・ラズウェルと出会ったのかを究明したい。

近藤は1978年9月にニューヨークへ行き、1979年8月まで滞在し、ミルフォード・グレイブスやジョン・ゾーンなどのアヴァンギャルドな音楽家とのレコーディングやコンサートを重ねる。

帰国後もNYを拠点に数多くの音楽家とコラボレーションし、1981年には「Mad World Music」というバンドのレコーディングで、ビル・ラズウェルと共演するなど、後の「TOKYO MEETING」に繋がるような、NYアンダーグラウンドシーンの人脈をこの時期に広げている。また、ニューヨークパンクのメッカとして知られるCBGBにも通っていたようである。

YMOが活躍していた時期に、近藤はNYのアンダーグラウンドシーンを中心に活動し、独自のネットワークを構築していたのだ。

またアート・リンゼイが来日するきっかけも近藤等則によるものであったことを指摘しておきたい。

近藤等則の追悼として、プロモーターの麻田浩は次のようにコメントしている。

近藤等則が亡くなった。彼と最初に会ったのは1985年、まだぼくがスマッシュにいたころだ。
ある日彼から電話があって会いたいと言うので事務所に来てもらった。
話と言うのは五百羅漢というバンドのツアーをやりたいので協力してほし
という事だった。
メンバーは近藤のトランペット、アート・リンゼイのギター、ジョン・ゾーンのサックス、山木秀夫のドラム、レックのベースというすごくおもしろそうなメンツだったので直ぐにやろうと返事した。
僕のことはそれ以前にやったラウンジ・リザーズやビル・ラズウエル、アントン・フィア、フレッド・フィリス・トリオの連中から聞いたという。70年代終わりにNY生活をおくった彼はそこら辺のミュージシャンとは親交があったのだ。

追悼 近藤等則 Tom’s Cabin 麻田 浩

近藤はアート・リンゼイやジョン・ゾーンらとバンドを結成し、ツアーで来日していたのである。アート・リンゼイもジョン・ゾーンもはじめての日本となった。

これについて、アート・リンゼイも次のようにインタビューで語っている。

初めて来たのは1985年です。近藤等則さん(トランペット奏者。映画音楽作曲家としても知られる)の招待でジョン・ゾーン(アメリカのサックス奏者)と一緒に来日して、FRICTIONのレックさん、今回も共演した山木秀夫さんと、ファイブハンドレッドスタチューズというバンドとして、1か月くらいツアーをしたんです。

日本に魅せられた音楽家アート・リンゼイの交友関係の秘密を探る


そしてツアーのあと、ぼくだけしばらく日本に残り、リュウイチ(坂本龍一)とレコーディングをしたり、ヤマキと芝浦のインクスティックでライヴしたりしたね。
これらは当時リュウイチのマネージャーだった生田朗さんがオーガナイズしてくれた、ぼくにとってすばらしい友人だったが、残念ながら彼はその数年後、メキシコで事故に遭い、帰らぬひとになってしまった。

別冊ele-king アート・リンゼイ――実験と官能の使徒

1985年のツアーでの初来日時に、アート・リンゼイは日本に滞在し、生田朗のコーディネイトで、坂本龍一の『ESPERANTO』のレコーディングに参加しているのである。

もっとも坂本龍一とアート・リンゼイは初対面は、1980年に遡る。

1980年から翌年にかけてのNYだね。
「The Soho Weekly News」のロイ・トレイン(「ノーウェイヴ」のジャンル名をはじめて使ったジャーナリスト)が、ものすごくアンダーグランドなDNAとものすごくホップなYMOを対談させたら面白いと思ったようでひきあわせてくれた。
そこでリュウイチがDNAのファンで、ぼくのギター・サウンドが好きなことを知らされて驚いたよ。
それからというもの、レコーディングで一緒になって以来、友人として、コラボレーターとして関係を継続してきた。85年の『Esperanto』ではじめてレコーディングに参加し『Beauty』では多くの歌詞を書いた。
グート・レーベルではサインしてくれて、バラードのレコードを作るよう促してくれたのも彼だ。

別冊ele-king アート・リンゼイ――実験と官能の使徒

アート・リンゼイが来日する直接のきっかけは、近藤等則の呼びかけであり、これをプロモーターの麻田浩が実現したものではあるが、来日後のコーディネイトには、坂本龍一のマネージャーである生田朗も携わっており、これによって『Esperanto』への参加が実現している。

生田朗はアート・リンゼイだけでなく、ビル・ラズウェルと坂本龍一の交流にも一役買っていたのだ。

ピル・ラスウェルには生田朗に引き合わされて、ぼくも彼のやっていたマテリアルというユニットは好きだった。
ジャズとR&Bやファンクを横断したノイジーでワイルドな音作りでカッコいいなと。
そしてこうしていろいろ一緒にやっていくうちに、なんとなく次のソロ・アルバムは彼にプロデュースを頼むんだろうなという意識になっていました。

Year Book 1985-1989

生田朗が果たした役割やビル・ラズウェルとの交流などについては、極めて興味深いものであるため、次節以降で詳しく紹介していきたい。

最後に本節のまとめに入ろう。冒頭で疑問として提示した「近藤等則とビル・ラズウェルの出会った経緯」については、近藤は1978年に活動の拠点をNYに移し、アヴァンギャルドな音楽と交流を深め、1981年にはビル・ラズウェルとバンドを結成したことによる。

もう一つの論点である「坂本龍一と近藤等則の関係性」については、1976年に浅川マキの『灯ともし頃 MAKI VII』で共演。YMO散開後の1984年には、ビル・ラズウェルなども交えて、交流が再開したということである。

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