坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて⑤
B-2 UNITへの助走
前節では1978年の加藤和彦プロデュースの野田テレサのジャマイカでのレコーディングが、地理的距離感と心理的距離感のねじれという、NEO GEO的体験の原初であったと記した。
ここでは本題に戻して、坂本龍一の本格的な海外レコーディングについて詳細に取り上げていきたい。
坂本龍一の本格的な海外レコーディングは、1980年リリースの2ndアルバム『B-2 UNIT』となる。このアルバムのカギを握る人物は、共同プロデューサーとしてクレジットされている後藤美孝である。
後藤美孝と坂本龍一の出会いは、1974年まで遡る。当時の坂本は、吉祥寺に集まっていたフォーク系のミュージシャンと親交があり、高田渡とも共演していた。
一方の後藤は吉祥寺の輸入レコード屋「芽瑠璃堂」の立ち上げに関わった 後、1976年2月に同じ吉祥寺にレコード屋「ジョージア」をオープン している。坂本龍一も同店の常連であったようだ。
後藤美孝と同じく「ジョージア」スタッフの山崎久美がレーベルを作ったことから、坂本龍一と本格的な音楽活動が始まる。二人がレーベルを設立した経緯は、「売るよりも作る方が面白そう」というシンプルな動機であった。
当初は自分たちでレゲエ・バンドを結成してレコードを作るというアイデアもあったが、茂木恵美子が自身のミニコミ誌『ウォッチ・アウト』を持ってジョージアに来店し、ニューヨークから帰ってきたミュージシャンを紹介。その後に連れてきたのが、フリクションのレックである。1979年1月15日に新宿LOFTで開催されていた「東京ロッカーズ」というイベントをたまたま観に行き、そこに出演していたフリクションの演奏を目の当たりにして、レコードを作るを決意する。レーベル名の「PASS」もレックが考えたものであるという。
フリクションはまずEP『Crazy Dream/Kagayaki/Big-S』を1979年8月20日にリリースするが、音質に限界を感じたことから、後藤は旧知の坂本龍一に相談し、エンジニアや機材などについてアドバイスを受ける。このことがきっかけとなって、坂本はフリクションや同レーベルのPhewのプロデュースを手掛けることになる。また、このことが『B-2 UNIT』制作の起点なったと後藤は語っている。
フリクションと坂本龍一の距離感
先述のEPを経てリリースされたフリクションの1stアルバム『フリクション』(1979年)はプロデューサーとしてどのような役割を果たしたのだろうか。
1980年の渋谷陽一によるインタビューでレックは次のように答えている。
後藤が坂本にレコーディングの音質について相談したことがプロデュースのきっかけであったとおり、坂本はアレンジにはほとんど関与せず、自身が連れてきたエンジニアの田中信一とバンドを仲介するような役割を担っていたようである。
後にフリクションのチコヒゲは、当時のレコーディングについて次のように振り返っている。
この指摘は的確である。なぜなら後のインタビューで坂本は次のように答えているからだ。
YMOではコンセプト上、身体性の喪失をアイロニカルに表現せざるを得なかったが故、坂本は本来の身体性への回帰願望として、『ノー・ニューヨーク』に対する憧憬があったのではないだろうか。
実際、『B2-UNIT』制作当時の感情について、坂本は次のように回想している。
そう考えると、坂本によるフリクションのプロデュースは、後藤が語るように『B-2 UNIT』の起点にはなっている。
しかしレックと坂本との関係ははどこか距離感があったように思えてならないのである。
参考文献
坂本龍一『音楽は自由にする』(P.100)
https://www.110107.com/s/oto/page/B-2UNIT_interview2?ima=2843
ばるぼら『NYLON100% 80年代渋谷発ポップ・カルチャーの源流』(付録)、1p
『ニューミュージック・マガジン』(1979年10号)、69p
『ロック画報 Vol.19』、24p
https://www.110107.com/s/oto/page/B-2UNIT_interview2?ima=2843
『ロック画報 Vol.19』、28p
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