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坂本龍一『NEO GEO』のリイシューに寄せて⑥
NYアンダーグラウンドシーンと東京をつなぐレック
前節ではPASSレコードでの一連の活動を、『B-2 UNIT』までの助走であると論じた。後に『B-2 UNIT』の共同プロデュースしたPASSレコードオーナーの後藤美孝がそのようにコメントしていることに加え、当時の坂本が抱いていた「アンチYMO」の萌芽を、この時期に見いだすことが出来るからである。
アンチYMOが『B-2 UNIT』で具現化されたとするのならば、フリクションやPhewのプロデュース、グンジョウガクレヨンのダブミックスなど、PASSレコードでの坂本の音楽活動は、「プレB-2 UNIT」と位置付けることができるのではないか。
ところで、再三にわたり登場するフリクションのレックとはどのような人物なのだろうか。「B-2 UNIT」を共同プロデュースした後藤とは異なった意味で重要な人物である。それは1977年3月から1年ほど、レックはニューヨークに滞在し、NYパンクシーンのメッカであるライブハウス「CBGB」で、ジェームス・チャンスやリディア・ランチなどのミュージシャンと交流していたからである。
レック帰国後には、ジェームス・チャンスやリディア・ランチらの4バンドの演奏を収めたアルバム『NO NEW YORK』がブライアン・イーノのプロデュースでリリースされる。
実はレックと一緒にニューヨークに行っていたのが、アート・リンゼイのバンド「DNA」でドラマーを務めていたモリ・イクエである。
モリ・イクエが所属していたDNAは、ジェームス・チャンスの「コントーションズ」、リディア・ランチの「ティーンエイジ・ジーザス・アンド・ジャークス」、マーク・カニンガムの「マーズ」とともに『NO NEW YORK』に参加することになる。
アート・リンゼイの大学時代からの友人であるマーク・カニンガムがバンドを結成したときに、アート・リンゼイはドラマーとして誘われたものの、ドラマーになることに興味がなかったことからこの誘いを断り、自分のバンドとしてDNAを結成する。
すでにレックは、リディア・ランチやジェームス・チャンスと音楽活動をはじめており、バンドの練習について行ったことをきっかけに、モリ・イクエはドラマーを募集してたアート・リンゼイのDNAに加入することになる。
ブライアン・イーノがプロデュースした『NO NEW YORK』は、坂本龍一が「僕、いまだにロックのアルバムでいちばん好きなのが『ノー・ニューヨーク』(VA)で。」と語っている。
PASSレコードに参加し、坂本龍一のプロデュースによる『終曲(フィナーレ)/ うらはら』(1980年)をリリースするPhewも、日本で発売される1ヵ月前に、BOYS BOYSの茂木恵美子よりカセットテープを入手するなど、日本の音楽シーンでも注目を浴びていたようである。
『NO NEW YORK』は1978年の春にレコーディングされるが、その直前にティーンエイジ・ジーザス・アンド・ジャークスに所属していたレックは、ビザが切れてたことにより帰国することとなる。
レックより数か月おくれてニューヨークに来たチコ・ヒゲも、ティーンエイジ・ジーザス・アンド・ジャークスを脱退したジェームス・チャンスが結成したコントーションズにドラマーとして加入しているが、ビザの問題でレコーディング直前に帰国している。
DNAのメンバーとしてニューヨークに留まり、『NO NEW YORK』に参加したモリ・イクエとは異なり、レックとチコ・ヒゲは一緒に帰国、バンド名は、CBGBにも出演していたテレヴィジョンの曲より、「フリクション」と命名された。
こうして、レックとチコ・ヒゲの2人は、1978年の春にニューヨークアンダーグラウンドシーンの空気を日本に伝えることとなる。
1978年の春といえば、YMOは結成されているもののまだデビュー以前であり、坂本龍一はスタジオ・ミュージシャンの仕事をこなしながら、『千のナイフ』のレコーディングに取り組んでいた頃である。
近藤等則がニューヨークに移住したのが1978年9月であることを考えると、帰国したフリクションの2人が東京で見た音楽シーンの風景も、少しは想像できるのではないだろうか。
羽田(成田空港はまだ開業していない)に降り立ち、東京駅までの移動中にパニックに陥ったというレックの告白は、東京とニューヨークのギャップを伝える、彼らのリアリティに他ならないだろう。
帰国したフリクションのデビュー・ライブが渋谷のライブハウス「屋根裏」で行われたのが1978年4月15日。《12》茂木恵美子がレックを後藤美孝に紹介し、坂本龍一プロデュースによって、フリクションの『軋轢』がリリースされたのが、1980年4月25日であることを考えると、フリクションの2人が帰国してからの2年間に起こった音楽的な状況の変化の大きさには驚嘆せざるを得ない。
そのようなギャップを抱えたままレコーディングに挑んであろうフリクションにとって、坂本龍一との間に距離感を抱いていたことは、想像に難くないのである。
参考文献
https://www.110107.com/s/oto/page/B-2UNIT_interview2?ima=2843
『ロック画報 Vol.19』(P.12)
『別冊ele-king アート・リンゼイ――実験と官能の使徒』(P.20)
『ロック画報 Vol.19』(P.46)
『OMOYDE』(P.41)
『NO WAVE―ジェームス・チャンスとポストNYパンク』(P.128)
https://www.discogs.com/ja/release/8180640-Various-No-New-York
『NO WAVE―ジェームス・チャンスとポストNYパンク』(P.36)
『ロック画報 Vol.19』(P.15)
同上
同上
エスケン『S-KEN回想録 都市から都市、そしてまたアクロバット: 1971-1991』(P.123)