数日書き散らしまとめ

10/1、内定式行ってきます!みたいな友人が多くて、あぁちょっとやはり私の選んだ道は比較的イレギュラーなのかなと思ったり。全然後悔はないし、(って言ってなきゃダメなだけかもしれない、)働くなかで活力を貰える、尊敬できる大人が多いのは私にとってとても大切な気がしているから、頑張っていきたい。

ずっとずっと本を読んでいる。

人と語る中で見つける自分が最も本音に近いこともある。迷子の私を、もう一人のわたしが誰かと共に探し出してくれる。ここにいたんだね、ここにいたんです。

たまたまのなかで、出会えたことに意味があると思う。と友人が言っていた。折に、大切な人たちから「誰でもいいように見える」とか、「自分でなくてもよかった」という言葉を向けられることが多くて、答える言葉を持たないまま閉口してしまう。傷ついている、んだけれど、その言葉を相手に発させているのは自分で、それならやっぱり先に傷つけたのは私なのだから、相手から傷つけられることも受け入れてしかるべきだと考えてしまう。

たまたま生きていて、生きてこれて、たまたま同じようなタイミングで新人類みたいに「分かってくれる」とか「自分に似ている」とか無色透明の期待を抱いて出会っただけの私達、その出会いに意味が生まれるのはきっとあとからなのだ。出会いに意味が生まれるのは、時間や思い出の蓄積があってこそだ。重ねた時間こそが理由であり、あなたであって、やはりそれは「あなただからだよ」以外では説明づけられない。偶然の中で出会えたこと、に、意味がある。わたしは私以上ではなく、他人もまた他人以上ではない。固有であることに本来そんなに意味なんてない。上位互換が数多くいる世の中で「いま」出会って、意味に転じるような時間を紡いでこれたのは、やっぱりまぎれもなく、わたしたちだからなんだよ。それだけなんだよ。それ以上の意味なんて、やっぱり要らないと思う。


思い返せば「今」はきっと美しい。いまが一番しあわせだって思う刹那的なその瞬間にそのまま息絶えたい。言いたかったこと、言えなかったこと、出来ること出来ないこと、きっとその全てが美しい。

分からなくても、理解しあえなくても、思い出を共有してくれる、ただ自分のことを知っていてくれる、自分の考えたことや人生の破片を対岸から見ていてくれる人の存在は、それだけで支えになる。

案外人は死なないし、理不尽なくらい簡単に奪われる。どうしてだろうか。今日も明日も、きっと明後日だって、大切な人は大切なままなのに。


あなたが大切だよ!って思うことと、大切に思われているな、って思ってもらえることは似ているようで全然違うのだな。大切だと思うことは簡単で、大切だと思っていることを伝えるのは難しい。大切だと思われている、と思ってもらうことは、もっともっと難しい。

無意識に立ち向かう。規範を再確認する。

人の死にたい、を否定する権利なんてたぶん誰も持ってない。自己都合だよ全部、わたしもあなたも、人生なんて多かれ少なかれそんなもんなんかな。私は私一人で十分すぎるくらい幸せになれるようになった後でないと、誰とも一緒に居られない気がする。

心の薄汚さばかり目立つ。着飾ったって私綺麗になれないよ。

電話ボックスがあった。公衆電話は既に取り外されていた。用も理由もなく打ち捨てられていた。誰にも気づかれずにあの電話ボックスはきっといつかいなくなる。そこに確かにあったのに、少しずつ、なくなっていく。それが全てだな、と思った。

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