くつひも
それが昼であれ夜であれ、彼女の気まぐれに付き合って、僕らはよく散歩をする。スーパーに向かって帰るコース、少し遠くのコンビニに行くだけ行って何も買わずに帰ってくるコース、本当に宛もなく疲れるまで歩いて疲れたって言い合いながら帰ってくるコース。どれであれ、彼女はお気に入りのスニーカーを履いて出掛けるのだけど、決まって、靴ヒモがほどける。それも、1回の散歩につき1度は必ず。その度焦って彼女は結び直すから、また少し歩いたらほどけて、結んで、歩いて、ほどけて、その繰り返しである。そうやって彼女に待たされる僅かな時間も含めて僕はこの散歩の時間がとても好きだ。
靴ヒモがほどけても、彼女は何も言わない。少し歩調をはやめて、僕の数歩先で小さくうずくまるようにして結び直す。何も言わないんじゃなくて、言えないんだと、僕はなんとなく気づいている。
いつものように袖を引っ張る彼女に連れられて、今日も出掛ける。今日はどうやら疲れるまで歩くコースらしい。少し肌寒くなった季節の夕闇のなかで、僕らの影も少しずつ闇に食われていく。僕らの散歩に大概会話は無い。ただ歩幅を合わせて、どことなく歩く。それが出来るのはきっと僕にとって今は彼女しか居ないし、彼女にとっても、きっと今は僕しか居なかった。星が綺麗に見える。もう冬だな、と思った時に彼女が小走りしてうずくまる。いつもの仕草に安心するような気持ちすらあった。オリオン座のベテルギウスはもうほとんど見えない。ずっとそこにあったのに。いつか忘れ去られてしまって、僕らの知っているあの美しい図形は、教科書の中の歴史の1ページになるのだろうか。ぼんやり考えたところで僕は彼女を追い越してしまっていたことに気づく。街灯の下で相変わらず手元をもたつかせてうずくまるようにしている彼女は、少し震えているように見えた。心細くなって、
「待ってって言ったって誰も怒らないよ」
一言投げ掛けた言葉に顔をあげた彼女の目が、どんな星より綺麗に光っていた。頼りない目から突然涙が溢れ出す。とめどなく流れる涙に濡れて、髪が顔に貼り付くその隙間に彼女の人生が垣間見えたきがした。震える指先で結び直すから、何回やってもうまくいかない。彼女の傍まで戻って同じようにうずくまる。何度となく散歩をしてきたけれど、ほどけた靴ヒモを結び直してあげたのははじめてだった。泣き止まない彼女の手をひいて帰路に着く。最初からこうしてあげたらよかった、という後悔と、何度だって結び直そう、という決意が僕のなかで同時に沸き上がる。小さな手のぬくもりだけが確かにそこにあった。