「諦め」という装置
自分を好きになろうとする。自分の嫌いなところをまず知って、極めてシンプルに言えば、その逆を目指せばおそらく好き、とか、良い、に近づける。そんな気がして人と話すなかで自分の直したいところ、変えたいところを精査していったら、どうしてもその要素がどうやって作られたか、自分のルーツを引っ張り出して考えてしまう。9割ほどは思い出して紐解いて傷付くだけなのに。たとえ原因が過去にあったとして、生きているのは今なのだ。切っても切り離せないけれど、分割して考える必要はあるのだろうなと思う。
誰かのせいにして生きることも、もう辞めたい。私が生きようが死のうが本来誰にも関係の無いことで、死ぬ理由はいくらでも簡単に見つかる。積み重なった末に些細なことが背中を押して人はまるで簡単なことのように死んでしまう。行き着くまでの内面の複雑さは、死という絶対的な結果に覆い尽くされて、結局のところは誰にも分からない。
死ぬ理由の明確さに対して生きる理由はふわふわし過ぎている。やりたいことなんて無い、成りたいものも無い、そもそも別に望んで生まれて無い。生きる理由なんて考えなくても良かったら、それはいちばん幸せだろうか。
愛されて育ったように見えても本人にとっては毒なこともあるように、また、毒にしか見えなくたって愛と受け取るしか身を守る方法がない時もある。人も物事も多面体だと知っているのに理解はできていない。浅く生きている気がして深く息を吸い込んでみる。
放っておいたってどうせ何らかの理由で死ぬのであれば、別にそれは今すぐでなくたって良い。そう思うときもあるけれど、それって同時に今でも良いってことだ。可能性も、長さも、想像もつかない人生を少しずつ確かにしていく装置としての諦めの作用もある気がする。二十億光年の孤独、をほんのりと思い出した。