文字通り心身共に余裕のない日々を送っている。単純にキャパオーバーなだけだけど、キャパってそのものが広がるかどうかというよりキャパに対して並ぶタスクにどれくらい能力をかけて処理していくかみたいな、処理能力を上げることによって結果的にキャパが広がって見えるかんじがする。そういうわけで、余裕を作り出すために少し睡眠時間を削ってこの文を書いています。健康になりたいし自炊を心がけるようにしているけれど、偏食なのでかえって不健康になっている気がする。

余裕のない時に自分の素が表れて嫌だなと思う。嫌われたくない、嫌われたくない、そんな考えばかり頭を支配して、仕事場にいるときの私のことが多分今の私はあんまり好きじゃない。仕事場もといその場の人のことは、私はすごく好きだし尊敬しているのだけど、嫌われるようなことばかりしてしまっている気がする。属することはやっぱり苦手だと思う。気を付けなくてはならないことが多すぎる。気を付けられる人間がスタンダードみたいに生きてて、逸脱は人間性として反ってくる。しんどいな。本人にそんな意図はないのにふとした言葉に傷ついて、それについて伝えることも怒ることも言い返すことも出来なかったことが、今でも鈍く刺さる。
向き不向きは確かにあるけど、向いてることと頑張りたいこと、やりたいことは一致するとは限らない。

いつも、いつもいつも、人にたすけられてばかりだ。不甲斐ないな。何も出来ない。でも何も出来ない自分と向き合うことだけはやめないでおきたい。と言いつつ本気で向き合うこともきっと私は出来てない。
自分と本気で向き合う、とか、言葉を交わして人と交わることを選ぶって、傷つく覚悟をすること・傷つける覚悟をすることで、それはすなわち生きてゆく覚悟をすることのひとつな気がする。

たくさんのことを一度に出来ない自分の言い訳もあるだろうけど、いろんなことに手を出して色々と中途半端にはしたくないから、文や短歌を更新する頻度がまばらになっていくかもしれない。今は仕事を頑張りたい。
やっぱり、こんな自分でも好きな自分で居させてくれるような空間や人が好きだな。

本当は今年度、いろんな人に会いに行ってお礼を言いたかった。こんな風に生活様式がガラッと変わると思っていなかったし、おかげで会いたい人にこちらから会いに行ききれていないから、おちおち死ねもしなくなってしまった。これも嘘かもしれないけれど。どうせ明日も明後日もぼんやり死にたいまま生きてゆけてしまうのだから。
本当に死にたい人間の前に明日っていう言葉は暗闇や空虚以外の意味をもたない。
今日できなかったことを明日にまわして、今日の反省を明日以降に活かして、っていう風に既に私にとって明日は色を持っている。それが幸せなことと言いきる勇気は無いけど、きっと不幸せとも言いきれない。
色々考えていたら具合悪くなりそうだ。のろのろ確実にいこう。

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