比喩の多い話

成りたい自分と現実の自分の差を他人で満たして、どうにか地に足つけてみました、みたいな至らなさばかり。


他人の弱さにつけこむように、そこを居場所にして生きていこうとする自分が居ること そういう自分の事実が許せないなと思う。
生きづらい世の中だから、せめて自分の前では最も都合良く楽にしていてほしいとも思う。それもまた事実。対局にいるような2つ、嘘でないこと、私は何をしていても私のことが嫌いなのだという答えしか出てこなかった。

悲しい思いをする人には極力優しくしたいけれど、それだけを掲げて生きていたら、誰かが泣いていないと生きていけない人になってしまう。気がする。

進み続ける誰かの隣に居たいなら、並び立てるだけの速度で歩き続けなければならない。
共に歩きたいと願うとき、一方の速度に一方が走って追い付こうとすることを続ければ、いつか体力が切れて、片方は置いてきぼりにされてしまう。相手のことを見つつ前を見ていなければ並び立って歩くことは難しい。私のペースにあわせてほしいだけなのか、あなたのペースにあわせるだけなのか、それらを繰り返した後にお互いにとって調度いい速度をみつけることができるのか、私にはまだ分からない。


好意、思いを人に伝える。大切だけどとてもリスキーだといつも思う。あなたにとって調度良く、私にとって調度良い分量の思いを投げ合わないと、なんだかあなたに怪我をさせてしまう気がする。放物線を描くボールが届いて、フルスイングで投げ返すようなもので、痛いし重い。受け止めきれないと落としてしまう。(フルスイングは投げる方も疲れる。)

キャッチボールもマラソンも下手くそで生きていくのが難しい。でも壁打ちだけが得意な奴のおかげで哲学が発達したのかもしれないし、短距離走だけが得意な奴のおかげで強引に命を救われる人もきっといる。


中学生くらいからずっと、人間関係のものさしと、物事の天秤をうまく使えるようになりたいと思い続けている。距離感を測るのが下手で見当外れなところにボールを投げ返してしまう。天秤をうまく使えないから、自分の気持ちしか分からないし正しさも一方にしか存在しないと思っている。


運動の例えも物体の例えも、いまだに望むようにうまくは出来ないけれど、同じようにうまく出来ない人達が、不器用なりに助けてくれたりする。互いの至らなさを互いで満たすこと、どこまでも愚かな自慰行為かもしれないけど、一瞬でも満たされて楽になれるなら、多分いまはそれでいい。(いま、が、いつまで続くかは分からない。)

私の至らなさもまた誰かの至らなさを満たすなら、パズルのピースみたいで悪くないなと少し思ったりした。

いいなと思ったら応援しよう!