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最近のこと


感受性が妙な方向に爆発していて、というより若返っている感覚で、本当に些細なことで涙ぐんだり実際に泣いたりしている。3秒後にはケロッとして別の音楽を聴いて喜んだり、より深く泣いたりしていて、はてどうしたものかと思っているが困ってはいない。


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同じような境遇の同世代がなかなか居ないから分からないけど、同世代が感じていない苦労を先取りしている代わりに味わうべき経験や感情を(機会ごと)喪失している気がしてならない。日々怖い。今日も焦りながら生きる。「なにもしない」をすることで簡単に寛大な自分になれたりしない。何もしていない時間に焦りを覚えるのはいつからでどうしてだろうか。いい加減「自分なんてこんなもん」って認めてしまったほうが良い。自分に対する諦めと受け入れが表裏一体に存在している気がする。


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しょうもないことに苛立ってしまう自分に更に苛立つ。平凡な、どこにでもいる、ありきたりな私の中に、好きなもの嫌いなものがある。一人一人にそれがあって、ぎゅうぎゅうに情報を押し込めながら何事も無くすれ違う街が怖い。


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映画を最近よく観ている。自分比で言えば意味が分からないぐらい観ている。没頭するのは没頭している瞬間に気付いた時が一番気持ちいい。そのあとはもう覚めてしまって「私は何をやっているんだ?」と思ってダメになる。

「殺さない彼と死なない彼女」「映画大好きポンポさん」「キャラクター」「ファーストラヴ」「シン・エヴァンゲリオン」等観た、感想はそれぞれ書いたり書かなかったりすると思う。序盤に書いたように感受性がチクチクになっているのですぐに泣く。代わりに普段泣くことが減った。完全に痛みの無い日々ではないけど確実に物事は進んで、動いている。私も動いている。明日からも1か10,0か100しかないまま進んでいく。それなりにやるべきことを適度にやっていこう。弱い自分のみっともない強さを知っている。


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6月某日

知らないうちに閉店したお店が知らないうちに更地になっていた。小学生とかそれより前くらいから、祖父や祖母、両親に連れられて来た小さな、平易な言い方をするとショボいデパートだった。
一階に自転車やさんとスーパー、100円ショップ、小さいフードコートみたいな場所があって、二階にゲームセンターと衣類売場と書店がちまっと付いていた。他にも色々あった気がするけれど当時の私が用の無かった場所を覚えていない。
買い物に同伴すればお菓子を1個またはゲームを一回やらせてくれて、それらを目的によちよち歩いたり走り回って怒られたりしていた気がする。規模は小さいお店だったけれど、幼い私にしたらお菓子売場の棚は天国みたいに煌めいて思えたし、ゲームセンターだって理解が及ばないくらい躍起になっていたと思う。
そうやって甘やかされて育った今お菓子もゲームセンターもそこに居るだけでなんだかちょっと元気になったりならなかったりする大人になった。
二度と行けないから、そういう思い出は大切にしていきたいなと思う。ちょっとずつ愛されながら寂れていくような、でも知らないうちに進化しているような、うつろいに気づかないうちに取り込まれているのがその地で暮らしていくということかもしれない。


自分を育ててくれた町や風景は好きだけれど、そうやって育ってきた自分や関わってきた人のことはどこか全体的に苦手な空気感があって、やっぱりここでは生きられないな~と思っていました。



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