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息を吸い込むことをしあわせだと思って何故だか泣きそうになったりする。布団の残り香に触れて心ごと丸くなる。生きていたって良いけれど、それでもやっぱり死んだって構わないと思う。誰か、や、何か、と繋がっている時だけ、その感覚を忘れて居られる気がする。けどずっとそればかりだとやっぱり自分じゃない気がしてしまうから、今日もいろんな自分を少しずつ抱える。
自分の軸をどこに置くか、ということとは別に、いろんな自分がいろんな所に少しずつ居ること、それってきっといろんな自分を肯定すること、されることに繋がっていく気がする。ひとつの場所で全てをさらけ出そう、受け入れて貰おうなんて大間違いじゃないかと思う。言えないことや言わないことがあることを受け入れあって生きていて、時には優しさが裏返って傷になったりする。もし本当に周囲の人を大切に思うなら、最も大切にしたい人を「大切にする」ということについて考えるのなら、自分の荷物を半分もたせるようなこと、誰かに過集注させるべきじゃないんだと思う。
そういう風に思えるようになってやっと、昔々に人から言われた言葉を克服できた気になっている。
「あの子とわたしの前で態度が違う」。今思えばそんなお互いに幼いやりとりを未だに覚えている方が変だろうな。なんでそういう言い方するんだろう、と同時に、どうしてこういう受けとり方しか出来ないんだろうと思う。人を責めるより自分を責めていたほうが楽だから。
本当に少しずつ自分を許したり認めたりしていきたい。自分を好きになれない自分や死にたい自分すら受け入れてしまったら、全部すこしだけしんどくなくなった気がする。でも、そういう自分がいたこともその時の気持ちも忘れないでいたい。
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あったらいいな、は、無くても良い。
ありふれた事実だと思う。
友達や恋人が居てくれたら確かにしあわせだと感じるけれど、別にひとりで居たって充分しあわせだと思えるようになった。思えない時も勿論ある。過去と比較した割合の話。
君が居たら嬉しいけど居なくても良い。
君が居たら嬉しいけど、それはどんな君でもきっと構わない。
君が居なくたって生きていけるけど、そんな人生は認めたくないくらい、寂しい。
そういう複雑さや根元的に触れてしまった温もりから来る寂しさを、ひっくるめてきっと「好き」と呼ぶ。
好き、にもいろんな種類があって当然だ。あなたがくれた温かさも寂しさも全部色も形も温度も違うのだから。
今日もわたしとあなた、という関係性がたくさんある中のひとつとして、あなただけの形で、わたしはあなたが好きだと思う。
どんな君でもきっと構わないと言い合うこと、怖がりながら少しずつゆるしあうことは、長く稚拙な道のりで、けれど振り返ったときにあたたかいものであればいいなと思う。
あなたが居なくても生きていけるだなんて例外にしてしまいたくなること、身を少しずつ薄めて渡すような心地、少し傾けば気色悪さに繋がることすらまた、「好き」なんだから、言葉はむずかしい。
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結局は、さみしい、と、ここにいる、を何度も言葉を変えて綴っているだけな気がする。
きっと、これは埋まらないし埋められないし、この穴ぼこが自分な気がする。埋まった部分はむしろ人様にいただいたもので出来ていて、最初から「わたし」だった部分なんてきっとどこにもないんだろう。それでいいと思った。