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最近の気づき諸々 6/25


コミュニティによって自分に与えられた役割は違うし、その役割によって性格にある程度幅が出るのは当たり前のこと。と、わかっていても、そういえばこんな自分もいたな~、と思い出すような感覚になった。

何かを辞めること、断ること、終わらせることが極端に苦手だと最近気づいた。つまり何かを決めることが苦手、と思っていたけれどどうもそうではないようで、自分が勝手に決めたことによって誰かを傷つけている可能性があることに気づいて、それが怖くて仕方なかっただけだった。これもまた違うのかもしれない。その場においてすすめるべき話を決めたりすすめたりしてくれる人の周りで「どうする?」って言うのが楽だっただけかも。いろんな人の前でいろんな自分がいて、それらはすべて自分で、その統一性の無さに吐き気をもよおしたりしながら生きていこう。肯定も否定もせず、ただそこに在ることを知っていることのほうが難しいのかもしれない。

価値も意味も結局自分の中にしかないことを理解していながら人に委ねてしまう弱さを受け入れていきたい。生きる意味なんてない。現状、それを見つける自由だけは許されている。


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あまりにも元気がない人あるある(多分)で、悪気がないと分かっていたり純粋な励ましと分かっていても、その白さに傷つけられることがある。「はやく元気になるといいね」とか、「しっかり休んで」という言葉はもちろんありがたい、ありがたいのだけど、将来そういう言葉を誰かにかけてしまうであろう自分のために書き残しておきたい。

そういう言葉の重たさすら背負わせないこと、もしくは共に背負うこと。元気になりたいってその人がいちばん思っているだろうこと。「話は聞くよ」という言葉は時に有効だけど「言えないよ」って思ってしまう自分がいること。(ありがとうしか言えなくなって以下に繋がる)周りに自分だけ置いていかれてしまう焦燥感と劣等感があること。それらは他人には見えにくいこと。絶対に急かさないこと。

※これらはすべて人による。

最後の「※」でめっちゃ逃げた感あるな。でも、言葉より近くに居てほしいし、そういう言葉より焦りや辛さのほうをただ理解されたい気持ちがある。(というより、経験等の裏付けのない言葉を私は信用できないから、言葉だけ投げかけられても「なんやねん」となってしまう性格の悪さがもっと根本にある。)自分のことを棚に上げて言うのは簡単だけど、自己開示しないと誰も信じてくれない。それが楽だったりもするけれど。

書いているうちに見栄っ張りで背負いたくないし背負わせたくないのもまた自分なのだと気づきました。


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あなたはあなたで、わたしはわたしで、一緒にいるために違っている必要がある、ってなんか不思議ですね。全く同じなら自分で十分だもんね。自分の嫌いな部分を自分の目の前で見せつけられて快い人はあまりいないのではなかろうか。


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両親にかけられる言葉があまりに薄く思えるのは、その言葉をかけるに至ったその人の歴史や思いを知らないからだと気づく。別に知る努力もしてこなかったし興味もなかった。分かり合えないと分かっていてそれでも歩み寄る努力を(自分のために)しているのでシンプルに褒められたい。

気づかないほうが楽だったから、つらい、と思っていることを自覚しないように生きてきたようで、本当にわからなくなってしまいました。自分のこと自分で抱えきれなくても死ねなかったら生きる道しか残されてない。耳の痛い言説ほど聞くべきと思っていたけれど、果たして本当にそうでしょうか。今の自分は単に嫌なことを言われていても「ありがとうございます」と正面から受け取ってしまう。あえて悪者になってくれた大人に後々気づく場合があるから何とも言えないけれど、本当に嫌なこと言われてるだけだったら別に受け取る必要ってないんだよなと思い直す。

経験してきた弱さを後から無理やり意味づけして強さとして塗り替えるより、その弱さを弱さのまま認めてやれる人のほうが強い、と尊敬している人が言っていて、本当にそうだと思ったしそれを自分で言語化できるようになりたいと思った。


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「元気とは…?」といった具合にすべて、本当にすべてが足元から崩れ去っていくような日々を過ごしています。暑いね。元気になったら会いたいって思っていたけど元気になるために人に会うのかもしれない。会話した後ひとりになると会話の脳内反省会が始まっちゃうから苦しいね。それをしなくていい相手にしか今は会えないかもしれない。最近の気づきまとめでした。

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